日韓慰安婦合意の悲哀 箱田哲也 — 2019年12月29日

日韓慰安婦合意の悲哀 箱田哲也

(社説余滴)日韓慰安婦合意の悲哀 箱田哲也

2019年12月29日

日本と韓国が交わした何とも不憫(ふびん)な約束である。

 ちょうど4年前の昨日、両政府が発表した慰安婦問題の合意のことだ。

 「合意は違憲」と反発する元慰安婦らの訴えは一昨日、韓国の憲法裁判所で却下された。だがそんな判断を待つまでもなく、すでに日韓両政府によって骨抜きにされてしまっている。

 韓国の文在寅(ムンジェイン)政権には、前政権が元慰安婦らの声に耳を傾けずに発表を強行したとの誤解がある。実際には政府当局者が十数回、被害者側と会い、意見を交渉にも反映させたが、文政権は被害者らのケアにあたる財団を解散させた。

 韓国では、日本に出し抜かれたのでは、との疑心が今も渦巻く。だが当時、合意案の承認を最後まで渋ったのは、韓国大統領府ではなく安倍首相の方だった。

 合意は過去に例を見ないほど明確に、日本政府の責任や謝罪、反省をうたう。

 それがよほど屈辱的だったのか。日本側は譲った部分を強調すまいと腐心した結果、心通わぬ契りと受け取られて漂流。首相が最もこだわった日本大使館前の像の撤去も遠のいた。

 そもそもこの合意は公式の当局間協議ではなく、両首脳の意を受けた交渉団が人知れず韓国のある都市で接触を重ね、結実させた。

 ナショナリズムを刺激する敏感な問題だけに静かな環境が必要だったことに加え、両政府内に存在した交渉の妨げになりうる人物の介入を避けるためだ。

 米国の仲介でなく、日韓間で独自にまとめた点でも歴史的と言える。

 慰安婦の実態は明らかになっていないことが多い。せっかくの汗の結晶だけに本来なら真相究明などの起点とすべきだったが、事態は逆の方向に進んだ。

 とりわけ韓国では陳腐な勝ち負け論や国内の「世論」にもまれ、にわかに色あせていった。

 不幸な過去を背景にした二つの国が和解することの重みと難しさを、慰安婦合意は示している。

 4年という歳月は、両国が少しは冷静に思考できる時間となっただろうか。

 目下、政府間の最大懸案である徴用工問題は、ついに越年することになった。その解決策をさぐる上でも慰安婦合意が残した教訓は多いと思う。

 (はこだてつや 国際社説担当)

https://digital.asahi.com/articles/DA3S14311947.html?_requesturl=articles%2FDA3S14311947.html&pn=4

慰安婦像展中止は「病理」か 朝日への違和感 — 2019年8月14日

慰安婦像展中止は「病理」か 朝日への違和感

【河村直哉の時事論】慰安婦像展中止は「病理」か 朝日への違和感

 慰安婦の象徴とされる少女像などを展示して中止になった「あいちトリエンナーレ2019」企画展で、朝日新聞社説に極めて強い違和感を覚えた。「あいち企画展 中止招いた社会の病理」とする8月6日付社説である。

 非常識な展示が中止になったことを、「社会の病理」だといっている。筆者には、慰安婦報道で朝日に寄せられたごうごうたる批判をも「病理」だといっているように読めてしまう。

批判は常識感覚の表れ

 社説はこう書いている。「一連の事態は、社会がまさに『不自由』で息苦しい状態になってきていることを、目に見える形で突きつけた。病理に向き合い、表現の自由を抑圧するような動きには異を唱え続ける。そうすることで同様の事態を繰り返させない力としたい」

 企画展には慰安婦を象徴する少女像や、昭和天皇の肖像を燃やす映像も展示されていた。税金が投じられ、開かれていたのは公的な場所である。まずもって常識感覚として、このような展示会はおかしい。

 実行委員会には批判が殺到した。なかには「ガソリン携行缶を持っていく」などの脅しがあり、男が逮捕された。このような脅しが許されないことはいうまでもない。

 しかしそのような悪質なものばかりだったのか。非常識な展示会に批判が相次いだことは、国民の常識感覚の表れである。それを「『不自由』で息苦しい状態」といい、「病理」とまで断じる感覚はおかしい。

 朝日社説は、今の政治や社会に疑問を持つ人も税金を納めているのだから、公金や公的施設を使っているからという批判は間違いだという。さまざまな層のニーズをくみ取って税金は使われるべきだ、と。

 どうしてそういう思考回路になるのだろうか。昭和天皇の肖像を燃やしたり、「sexual slavery(性的奴隷制)」などの説明文を付けた少女像を展示したりすることは、日本の象徴と内実である天皇、歴史を傷つけ、日本の公共性を破壊しようとすることなのである。たとえば日本の公教育の教科書にこのようなものが掲載されていたとしたら、その逸脱ぶり、反公共性ぶりは明らかだろう。社会を破壊しようとするものに公的な金や場所を使うべきではない。

自由は無制限ではない

 河村たかし名古屋市長が展示中止を求めたのに対し、トリエンナーレ実行委員会長を務める大村秀章愛知県知事は「表現の自由を保障した憲法21条に違反する疑いが極めて濃厚ではないか」と述べた。朝日社説も、憲法の表現の自由を持ち出して市長を批判している。

 しかし表現の自由は決して無制限のものではない。12条は、憲法が国民に保障する自由と権利を国民は濫用(らんよう)してはならない、としている。13条は、自由などの国民の権利は、公共の福祉に反しない限り、国政の上で最大の尊重を必要する、としている。

 表現の自由は公共の福祉の制約を受けるのである。「チャタレイ夫人の恋人」翻訳出版のわいせつ性が問われた裁判で、最高裁は昭和32年、表現の自由は重要だが公共の福祉によって制限される、としている。

 それでも朝日が、企画展の中止を招いたものを「社会の病理」とまで書くのは、なぜか。自らの慰安婦報道に浴びせられた世間の批判から、自らを正当化しようとしていると読まれても、しかたないのではないか。あれも「社会の病理」であった、と。

本質は変わらないのか

 朝日は慰安婦を「強制連行」したという故吉田清治証言をしばしば取り上げるなど、慰安婦問題についてキャンペーン的な報道を展開してきた。平成26年8月、問題を検証し、吉田証言を虚偽として記事を取り消した。しかし日本をおとしめながら取り消しが遅きに失したこと、謝罪がないことなどに批判が集中、第三者委員会を設置して検証を委ねた。

 同年末に委員会が報告書を出した際、渡辺雅隆社長が紙面で書いている。「誤報を長年放置したのは、批判に正面から向き合わなかった結果であり、謙虚さに欠けていたと思います」「吉田氏の証言に関する記事を取り消したのに謝罪しないという誤った判断をしました」

 断っておくと筆者は朝日に限らず、立場が違っても、同業他社の仕事にはそれなりの敬意を払っている。良質な仕事をしていると思う報道は多いし、参考にさせてもらうこともしばしばある。しかし過去の朝日には偏った記事が多く、慰安婦報道はそのひとつだったというのが率直な認識である。

 筆者の印象では、慰安婦問題ですさまじい批判を浴びた後、朝日の紙面は表面上はおとなしくなった。しかし偏った企画展が中止に追い込まれたことが「社会の病理」とまでいうとは、本質はなにも変わっていないのではないかと思えてくる。

 朝日が平成26年に慰安婦問題を検証したとき、その姿勢に怒っていた人たちを筆者は大勢知っている。重ねていうが脅しをかけるなど論外である。許されない。しかしあのとき怒っていたのは、決してそんな人たちではない。知識人もいたが、それ以上にごくふつうの男性、女性が怒っていた。

 常識的な日本人が怒っていたのである。日本のなかで日本をおとしめようとする倒錯に対する怒りだった。その人たちに「病理」などかけらもない。日本を大切にしようと思っている人ばかりだった。

 それを「病理」というなら、朝日がむしろおかしい。

(編集委員兼論説委員)https://www.sankei.com/premium/news/190814/prm1908140008-n1.html

社説余滴 朝日 日韓合意検証「外務省幹部は「穏便な内容で安堵した」」 — 2017年12月29日

社説余滴 朝日 日韓合意検証「外務省幹部は「穏便な内容で安堵した」」

(社説余滴)韓国が断つべき本当の悪弊 箱田哲也

 あの人も、この人も。

 韓国でいま、李明博(イミョンバク)、朴槿恵(パククネ)・両保守政権の元高官らが次々に摘発されている。

 違法行為を見逃すわけにはいくまい。だが、時の権力の意をくんだ韓国検察の政治捜査は有名で、裁判で無罪になるケースも少なくない。

 朴氏に代わった文在寅(ムンジェイン)大統領ログイン前の続きは就任演説で国民統合の実現を約束したが、少なくとも今のところ逆の方向に向かっているように映る。積もり積もった弊害の清算だ、というが露骨にすぎないか。

 そんな流れのあおりを食ってか、朴政権の数少ない実績である日韓両政府の慰安婦合意が、韓国で調査された。

 三十数ページにおよぶ報告書を読むと「秘密協議」「非公開の合意」などと怪しげな文言が並ぶものの、すでに明らかになっていた中身ばかりで、驚くべき新事実はなかった。

 日本政府は表向きは反発を装ったが、交渉経緯に詳しい外務省幹部は「穏便な内容で安堵(あんど)した」と語る。

 報告書は、さも日本側に有利な中身で落ち着いたかのような評価をしたが、必ずしもそうとは言えない。

 日韓間で合意文が固まった後、ある文言をめぐって発表直前まで日本側は修正要求をしたが、韓国側は徹底抗戦で拒んだ。一字一句、こんなやりとりを10カ月間繰り返した結果が、2年前のきのう発表された日韓合意である。

 前政権がやったことはすべて悪だと短絡的に決めつけるのなら、それこそ韓国政治の悪弊である報復の連鎖は、いつまでも断ち切れない。

 日本との関係のみならず、いま韓国は、大きな試練に直面している。北朝鮮問題は解決の糸口すら見つからない。米中という大国のはざまで、どんな立ち位置をとるのか、なかなか定まらない。

 社会構造の欠陥に国内の不満や不安は高まる。少子高齢化。若年失業率の高さ……。現在の高支持率に浮かれてばかりはいられない現実が文政権を待ち受ける。

 韓国社会のことを、あらゆるものが権力の中心へ集まろうとする上昇志向が強い渦巻き型だ、と分析した米国の元外交官グレゴリー・ヘンダーソンがこう記している。

 「内憂外患に際して露呈する政治的凝集力の欠如は、朝鮮の歴史を通じて長年にわたり伝染病のごとく繰り返された」(「朝鮮の政治社会」)

 半世紀前に書かれたこんな指摘の色あせる日が、早く来ることを願う。

 (はこだてつや 国際社説担当)
2017年12月29日 朝日
https://web.archive.org/web/20171228231651/https://www.asahi.com/articles/DA3S13294834.html

朝日 「大阪市長の下ろせぬ拳」sf市 — 2017年11月24日

朝日 「大阪市長の下ろせぬ拳」sf市

姉妹都市解消こだわる訳は 大阪市長の「下ろせぬ拳」?
半田尚子 吉川喬2017年11月24日

 米サンフランシスコ市に建てられた慰安婦像が市有化されたことを受け、大阪市の吉村洋文市長は60年にわたる姉妹都市関係を解消する考えを表明した。歴史ある関係を捨ててまで、吉村市長がこだわるのはなぜか。

10月23日夜、大阪市内のホテルで両市の姉妹都市提携60周年を祝うパーティーが開かれた。吉村市長は乾杯のあいさつを終えると、サンフランシスコから来日していた姉妹都市協会共同委員長のキャスリーン・キムラさんと別室に移り、約20分間会談した。

 ところが、会談後、キムラさんは人目につかない柱の陰にしゃがみ込むと、潤んだ目元を指でぬぐった。出席者によると、吉村市長から「サンフランシスコ市が慰安婦像を認めるなら、姉妹都市関係を解消する」と伝えられたという。

 サンフランシスコ市との関係は、前任の橋下徹市長時代に悪化した。橋下氏は2013年5月に「(戦中は)慰安婦は必要だった」と発言し、中国系、韓国系の住民も多いサンフランシスコで批判が高まった。同年6月に訪米を予定していた橋下氏だが、サンフランシスコ市側から「表敬訪問は受けない」と連絡があり、断念に追い込まれた。

 15年にはサンフランシスコ市議会に慰安婦像設置に賛成する決議案が提案された。橋下氏は「日本の事例のみを取り上げることによる矮小(わいしょう)化は、世界各国の問題解決にならない」と書簡で抗議したが、決議案は全会一致で可決された。

 当時を知る元大阪市議は、「(慰安婦問題は)譲れない」と言った橋下氏の姿と吉村市長を重ね合わせ、「わざわざ持ち出して刺激する必要はないのに」と首をかしげる。

 ログイン前の続き吉村市長は就任後、サンフランシスコ市に計5回、慰安婦像に対する抗議の書簡を送り続けてきた。今年9月には姉妹都市解消を持ち出した。大阪市幹部は「振り上げた拳を、下げられなくなってしまったのでは」との見方を示す。

 吉村市長は23日、朝日新聞の取材に「(サンフランシスコ市長が)署名したということは、日本側と認識が違う内容を世界に広めるのに同意したということ。非常に残念だ」と述べた。(半田尚子)

公明・自民から申し入れも
 大阪市議会では、サンフランシスコ市との姉妹都市解消に反対する声が上がる。公明と自民の市議団幹事長は22日、吉村市長に面会し、「慰安婦像の設置には反対」としつつ、姉妹都市関係は解消せず対話を通じて問題の解決を図るよう申し入れた。

 一方、市長与党の大阪維新の会が今年9月、慰安婦像の設置を再検討するようサンフランシスコ市に求める決議案を市議会に提出した際は、「外交は国の専権事項」(自民市議)などとして、公明、自民、共産が反対し、否決された。維新は市議会第1党だが、過半数には届いていない。

 ただ、解消に議会の議決は必要なく、吉村市長は手続きを進める方針だ。(吉川喬)

https://web.archive.org/web/20171124105656/http://www.asahi.com/articles/ASKCR4V6BKCRPTIL00L.html

朝日社説 SF市と大阪市市民交流を続けてこそ — 2017年11月19日

朝日社説 SF市と大阪市市民交流を続けてこそ

(社説)姉妹都市 市民交流を続けてこそ
2017年11月19日05時00分

太平洋の両岸にある大阪市と米サンフランシスコ市。今年10月に満60年を迎えた両市の姉妹都市関係が危機に陥っている。

 サンフランシスコ市議会が今月14日、地元の市民団体が設置した慰安婦像を公共物として受け入れることを議決した。

 像の碑文には「旧日本軍によって数十万人の女性が性奴隷にされた」「ほとんどが捕らわれの身のまま亡くなった」といった表現がある。

 大阪市の吉村洋文市長は「不確かな主張で、日本へのバッシングだ」と再三抗議してきた。サンフランシスコ側が方針を覆さない限り、年内にも姉妹都市提携を解消する意向だ。

 ちょっと待ってほしい。姉妹都市の関係のもとで育まれてきた交流は、双方の市民の歴史的財産である。市長の一存で断ち切ってよいものではない。

 慰安婦の総数や詳しい被害の実態は、これまでの研究でも定まっていない。

 「違う」と考えることを「違う」と伝えること自体は大切だろう。だが、意見を受け入れなければ友好関係を解消するというのは、冷静さを欠いている。

 もともと姉妹都市は、国と国の関係と別に、「人と人」として、主に文化面での交流を深める目的で発展してきた。日米のようにかつて戦った国や、政治的に対立しあう国との間でも盛んに結ばれてきた歴史がある。

 国が違えば人々の考え方は違う。市民同士が息の長い交流を重ねることで、その違いを理解し、乗り越えていこうというのが、姉妹都市の精神のはずだ。

 歴史認識や領土問題が自治体の友好に影を落とす例はこれまでもあった。島根県が「竹島の日」を制定した05年、韓国・慶尚北道は「断交」を宣言した。中国・南京市も12年、戦時中の南京大虐殺はなかったとする河村たかし名古屋市長の発言に反発し、交流停止を通告した。

 これらのケースでは日本側が「問題と切り離して交流を続けるべきだ」と主張してきた。大阪市がしようとしていることはまさに逆だ。「人と人」の交流との原点に立ち返り、関係を続けていくべきだ。

 外交において歴史認識をことさらに問題視する大阪市の姿勢は、安倍政権と軌を一にする。

 韓国・釜山の日本総領事館前に、慰安婦問題を象徴する「少女像」が設置された際、安倍政権は対抗措置として駐韓大使らを一時帰国させた。

 ただ、現実は何の成果も出ないまま、日韓交流の停滞だけが残った。強硬措置がもたらす副作用も肝に銘じておくべきだ。

朝日 https://web.archive.org/web/20171119030717/http://www.asahi.com/articles/DA3S13234938.html?ref=editorial_backnumber

吉田証言 産経の訂正 — 2017年10月20日

吉田証言 産経の訂正

櫻井氏会見「産経は訂正していますよね」は事実誤認 産経は明確に訂正せず
楊井人文 | 日本報道検証機構代表・弁護士
2016/4/24(日)

【GoHooレポート4月24日】「慰安婦記事を捏造した」などの指摘で名誉を傷つけられたとして、元朝日新聞記者の植村隆氏がジャーナリストの櫻井よしこ氏などを相手損害賠償と謝罪記事の掲載などを求めた訴訟で、産経新聞は4月23日、ニュースサイトに櫻井氏の会見詳報を5回に分けて掲載した。その中の3回目で、櫻井氏の発言を引用する形で「産経は訂正していますよね。最後までしなかったのは朝日と植村さん」という引用符付きの見出しを掲載。しかし、産経新聞はこれまで、自社が出した慰安婦問題報道に関し、2014年8月と昨年8月に釈明記事を掲載したことがあるが、明確に記事の誤りがあったと認めたり、訂正する旨を明言したことはない。
産経ニュースサイトの記事によると、櫻井氏の会見では、記者が「女子挺身隊の名のもとに戦場に連行され」という表現が産経新聞など他紙にもあったことについて、これらも「捏造である」と論評するかどうかを質問。これに対し、櫻井氏が「産経新聞などは秦さんのレポートが出た後、いろんな場面をとらえて訂正していますよね。読売新聞だって同じだと思いますよ。だけども最後まで、というか2014年までしなかったのは朝日新聞と植村さんではないですかと私は問うているわけです」と答えていた。
これについて、産経ニュースサイトは、櫻井氏の発言を見出しに取り、産経が朝日より先に訂正を出していたかのように強調したが、正確な事実関係について特に注釈もつけていなかった。このため、櫻井氏の発言どおり、産経が過去の記事を訂正した事実があるかのような誤解を与える可能性が高い。

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朝日新聞は、2014年8月5日付朝刊で過去の慰安婦報道の検証記事を掲載。その中で、戦時下の朝鮮で女性を慰安婦にするため強制連行したとの故吉田清司氏の証言を「虚偽」と判断したとして16本の記事を取り消すと発表。慰安婦と女子勤労挺身隊を混同した表現も、両者は「まったく別」であり「誤用」だったとの見解を示した(参照=【旧GoHooレポート】(1)・(2))。朝日は、1992年3月にソウル特派員のコラムで慰安婦と女子挺身隊の混同を指摘し、1997年3月の特集で故吉田氏の証言について「真偽は確認できない」としたが、いずれも2014年8月まで訂正の措置はとられなかった。
一方、産経新聞は、朝日が検証記事を出した日の翌日朝刊で、平成5年(1993年)の大阪本社版に掲載した「人権考」と題した連載記事に、故吉田氏の証言を取り上げた回があったことを認めた。しかし、記事の掲載日や見出しは明記せず、証言の信憑性に疑問の声があることも指摘していたなどと弁明しただけで、訂正の措置はとらなかった。
さらに、昨年、植村氏が産経新聞記者のインタビューで、他の慰安婦関連記事にも「強制連行」などの表現があったと指摘(参照=産経ニュースサイトの記事)。これを受け、産経は昨年8月4日付朝刊で、朝日新聞が検証記事を掲載して1年を迎えて特集した記事の中で、1991年9月3日付、同年12月7日付、1993年8月31日付の3本の記事(いずれも大阪本社版)について、「『挺身隊』の名の下に、従軍慰安婦として狩りだされた」といった表現などがあったと認める小さな記事を掲載。だが、いずれも韓国人が発言した説明を伝えたものであるなどと弁解し、明確な訂正の措置はとらなかった。産経は、昨年8月4日付記事が過去の記事を「訂正」するものかと植村氏が質問したのに対し、「個別の記事に関することはお答えできません」と明言しなかった(週刊金曜日2015年12月11日号)。
なお、産経は、故吉田氏の証言に重大な疑義があるとの歴史学者・秦郁彦氏の指摘を1992年4月に報じ、以後「強制連行」に否定的な報道を続けていたものの、朝日が2014年8月に検証記事を出すまで、産経が自ら過去の記事を検証した形跡はこれまでに確認されていない。

さらに、櫻井氏が言及した読売新聞も、朝日が検証記事を出した日の翌日朝刊で「本紙、繰り返し誤り正す」との釈明記事を掲載した。自社が過去に訂正記事を出したとの説明はなく、この時も訂正の措置はとられなかった。
北海道新聞は、朝日が検証記事を出してから3ヶ月以上たった2014年11月17日付朝刊で、いわゆる「吉田証言」報道を初報のみ取り消す措置をとったことを明らかにしている(既報あり=【GoHooレポート】道新 慰安婦強制連行「吉田証言」初報のみ取消し)。

産経ニュースサイトに掲載された櫻井氏の会見詳報の一部は、以下のとおり。
–私が伺いたいのは「女子挺身隊の名のもとに戦場に連行され」という言葉使いは産経新聞や北海道新聞や読売新聞でも同様の記事を出されているんですが、これについても捏造であるという風に論評されますか
代表弁護士「さきほどからずっとお話してきたことなんですけどね」
–櫻井さんに…
櫻井氏「ほかのところは確かに間違っていた時期もありますが、ちゃんと後にそれを訂正していますよね。産経新聞などは秦さんのレポートが出た後、いろんな場面をとらえて訂正していますよね。読売新聞だって同じだと思いますよ。だけども最後まで、というか2014年までしなかったのは朝日新聞と植村さんではないですかと私は問うているわけです。この長い年月の間に日本国と日本人がどれだけ不名誉な濡れ衣を着せられていたかということを考えてくださいと言っているわけですね」

出典:産経新聞ニュースサイト2016年4月23日掲載、「櫻井よしこ氏会見詳報(3)『産経は訂正していますよね。最後までしなかったのは朝日と植村さん』」

https://news.yahoo.co.jp/byline/yanaihitofumi/20160424-00056992/

朝日 戦時の性暴力、どう裁かれた — 2017年3月25日

朝日 戦時の性暴力、どう裁かれた

(慰安婦問題を考える)戦時の性暴力、どう裁かれた

2017年3月21日05時00分

 慰安婦問題を考えるシリーズは今回、第2次世界大戦後に、米英などの連合国が敵国だった日本やドイツの戦争犯罪を裁いた法廷で、慰安所や性暴力の問題がどう扱われたかを振り返ります。戦時の性暴力に対する国際社会の認識がその後、どのように変わってきたかについても考えました。

■東京裁判、研究者に聞く 連合ログイン前の続き国軍捕虜への虐待問題、最も重視/朝鮮人や台湾人女性の被害扱われず

2011年2月、資料集「東京裁判――性暴力関係資料」(現代史料出版)が出版された。戦後に連合国が日本政府や軍の指導者らを裁いた極東国際軍事裁判(東京裁判)の膨大な証拠書類から、日本軍の性暴力に関連した供述書など40点を収録。研究は内海愛子・恵泉女学園大名誉教授の問題意識から始まり、宇田川幸大(うだがわこうた)・一橋大特任講師ら3人が参加した。

――研究のきっかけは。

内海 1979年、研究者らが「東京裁判研究会」をつくり、東京裁判に提出された証拠書類や判決書などを調べ分析しました。私も参加しましたが、性暴力関係について証拠資料を体系的に調べた研究者はいなかった。私を含め問題意識が希薄だったのです。90年代に元慰安婦の証言を聞き、衝撃を受けました。「戦争裁判が戦時中の性暴力をどう裁いていたのか、資料をまとめなければ」と思いました。

2000年に東京で市民団体が「女性国際戦犯法廷」を開き、元慰安婦の女性らが各国から来日して被害を訴えました。それまでに資料をまとめたいと思いましたが、間に合いませんでした。その後も作業を続けましたが、メンバーが入れ替わり、中断もあって、今回の資料集出版で「宿題」を果たすまでに約10年かかりました。

――資料をどう分析しましたか。

宇田川 4人の研究者が分担し、裁判速記録や証拠書類を読み込み、強姦(ごうかん)や強制売春などの記述を拾い出しました。東京裁判の参加国は欧米が中心。法廷では中国やフィリピンなどの住民に対する残虐行為の一部が取り上げられましたが、審理全体で最も重視されたのは連合国軍捕虜への虐待の問題でした。

内海 性暴力に関しては、元日本陸軍幹部が「忌まわしい犯罪の発生を防ぐため、軍紀風紀の違反者は厳罰にする一方、慰安隊の設備には十分注意した」と述べた宣誓供述書を出しています。「慰安隊」を犯罪予防の手段に位置づけた供述です。元陸軍省法務局長の供述書には風紀取り締まり強化の証拠として42年に陸軍刑法を改正し、強姦罪を重罰化したと書かれています。

これに対し、連合国で構成される検察側は法廷で「非常に多くの陵辱事件があったことが動機となって陸軍刑法が改定されたのではないか」と尋問。元法務局長は「戦地に強姦の罪が相当あり、厳重に処分すべきことを要求された」と答えました(資料〈1〉)。重罰化の背景として、戦地で強姦が多発していたことを認めたと言えます。

――東京裁判資料には性暴力の記述が多く見つかるのですか。

宇田川 いいえ、むしろ逆です。東京裁判の判決では、中国の桂林の事件についてこう書かれています。「桂林を占領している間、日本軍は強姦と掠奪(りゃくだつ)のようなあらゆる種類の残虐行為を犯した。工場を設立するという口実で、かれらは女工を募集した。こうして募集された婦女子に、日本軍隊のために醜業を強制した」(資料〈2〉。「醜業」とは売春のこと)

しかし判決でこうした記述は例外的です。裁判で性暴力の問題が詳しく扱われた例は少ない。女性の裁判官が一人もいないという問題もありました。性暴力の問題は軽視され、被害の実態が見えなくされた側面があると思います。

――BC級戦犯裁判で慰安所が問題となった代表例にはオランダ領東インド(現インドネシア)のスマラン事件などがありますね。戦後にオランダがジャワ島のバタビア(現ジャカルタ)で開いた法廷で、日本軍将校や業者らが死刑や禁錮刑などを宣告されています(資料〈3〉)。

内海 スマランで日本軍が「敵国人」として抑留していたオランダ人女性を連行し慰安所を開いた事件です。事件を知った軍司令部の命令により2カ月で閉鎖されました。戦争裁判では連合国の捕虜や民間人への虐待を訴追した例が多く、総じてアジア住民被害の裁判は限られていました。スマラン事件は、被害者が連合国のオランダ人だったから裁判になったのです。

まったく取り上げられなかったのが、朝鮮人や台湾人女性の被害です。朝鮮や台湾の植民地支配は、戦争裁判で審理されなかったのです。

――戦時の性暴力に対する認識はその後、どのように変化したのでしょうか。

内海 戦時の性暴力が女性の人権を侵害する重大な戦争犯罪であり「人道に対する罪」であることが世界的に明確になったのは90年代以降のことです。日本の慰安婦問題が顕在化し、元慰安婦の女性が被害を訴え、補償や謝罪を求めたのが一つのきっかけでした。歴史研究でも、被害当事者の視点を踏まえた調査・研究が進められるようになりました。

■インドネシアで証言調査 日本の研究者、30人から聞き取り

慰安婦をめぐる学術調査が、インドネシアで続いている。

鈴木隆史・桃山学院大講師らは、太平洋戦争中に日本海軍が軍政を敷いたインドネシアのスラウェシ島(旧セレベス)南部で2013年から調査。「日本軍の性の相手をさせられた」と訴える女性を訪ね、約30人から聞き取りをした。

日本軍占領時に、そうした施設を目撃したという住民らの話も聞いた。「工場からの帰り道に兵隊につかまった」など、本人の意思に反して慰安婦にさせられたとの証言が相次いだ。性暴力を受けたという現場は、竹とヤシの葉でつくられた長屋や飛行場近くの地下壕(ごう)などだった。

現地では、性暴力の被害を「恥」とみなす意識が強く、女性たちは沈黙を余儀なくされたという。元慰安婦のチンダさん(84)は初来日した昨年の集会で「真実を明らかにし、正義を実現してほしい」と訴えた。

被害を訴える女性はさらに見つかり、今年も調査は続く。鈴木氏は「彼女たちの声を、生きているうちに記録することが私たちの使命」と話す。

日本の敗戦後、現地の日本軍政機関「セレベス民政部」の海軍司政官が作成した「南部セレベス売淫施設(慰安所)調書」(資料〈4〉)には、民政部監督下の23施設とそれ以外の7施設の記録があり、計約280人の女性がいたとみられる。

鈴木氏らの現地調査では数カ所が、調書にある地名と一致した。吉見義明・中央大教授は「スラウェシ島南部の慰安所は軍直営か事実上の直営だったことがうかがえる。末端の部隊が現地の判断で設け、民政部が把握していなかったケースもありうる」と指摘する。

同島北部に上陸した陸軍部隊の戦友会報(資料〈5〉)にも、「地区の婦女子の安全を守るために部隊では直営の慰安所(娼館)を開設していた事があった」との記述がある。

■ドイツで自国の「加害」研究 「再発防ぐため、社会全体の問題に」

ドイツのハンブルク社会研究所研究員、レギーナ・ミュールホイザーさん(45)は2010年、第2次世界大戦中のドイツ兵による性暴力についての研究を発表し、旧ソ連の国々で女性を強姦し、軍専用の売春施設を設けたことを示す資料を著書(資料〈6〉)で紹介した。

――戦時性暴力の研究を始めたきっかけは。

1994年に3カ月間、研究のため韓国に滞在し、元慰安婦の女性たちが公の場で自発的に話していることに驚きました。「体験を伝えなければ」という使命感に満ちていました。

性暴力被害者が声を上げるのは困難ですが、韓国の女性たちの姿は、戦時下の性暴力が共同体や社会全体の出来事であり、経験を語ることは恥でも罪でもないと示してくれました。

――自国の「加害」を研究する理由は。

以前は、ソ連兵から性暴力を受けたドイツ人女性ら被害者に焦点をあてた研究をしていました。2000年に東京で、元日本兵が加害の証言をするのを見て、祖父の世代のドイツ兵はどうだったのかを考えるようになりました。

――戦時性暴力は戦後、どう裁かれましたか。

連合国がドイツを裁いたニュルンベルク裁判で、ソ連が提出して採用された証拠文書「USSR51」には「ドイツ軍司令部があるホテルに将校用売春施設を開設し、何百人もの少女と女性が連れ込まれた」との証言があります。ソ連の外務人民委員が証言し、ドイツ軍の「野蛮さ」を立証する意図で提出されましたが、事実関係を調査しようという動きは出なかった。性暴力が「戦争の副作用」の一つとして軽視されていたからだと思います。

――ドイツ軍の資料からも、ソ連の占領地域で軍専用の売春施設を設けた実態を明らかにしました。

ドイツ兵が各地で軍専用の売春施設を設置し、スモレンスク(現ロシア)など少なくとも15カ所に16施設があったことが、軍の資料などから判明しました。軍は兵士の性欲を管理しなければならないという考え方があったとみられます。強制性の程度や賃金の有無など、実態の多くは未解明です。

――自国の過去を発掘するのはなぜですか。

戦時下の性暴力を防ぐためです。どの国、どの時代でも起こりうることだからこそ、社会問題にしなければなりません。「他国でもやっていたことなのに、なぜ自国ばかり反省しなければならないのか」という声は世界中にある。そのことこそ、社会全体の問題として考えるべきではないでしょうか。

■「人道に対する罪」90年代に浸透

冷戦が終結した1990年代、強姦や強制売春など戦時の性暴力が国を超えた「人道に対する罪」だとの意識が世界に広がった。

韓国在住の元慰安婦として、金学順(キムハクスン)さんが初めて名乗り出たのは91年。93年には、ウィーンの国連世界人権会議関連のシンポジウムで元慰安婦が証言に立った。同じころ、旧ユーゴスラビアでボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が起き、性暴力被害が問題になった。

戦時下の女性の問題を研究するロンドン大経済政治学院のクリスティーン・チンキン名誉教授(国際法)は「過去にも同様の犯罪は起きていたが、全く追及されなかった。90年代になり、ようやく国際社会が重大性に気づいた」と振り返る。

ボスニア紛争時や、ルワンダ内戦下での行為を裁く国際法廷が相次いで設置され、98年にローマで採択された国際刑事裁判所(ICC)の設置条約には、戦時下の性暴力は「人道に対する罪」と明記された。

「戦時性暴力は国を超えた犯罪との認識が一気に広がり、窓が次々と開くように制度が発展した」とチンキン名誉教授は振り返る。

戦時下の性暴力は今も続く。国連は、昨年7月に南スーダンであった大規模な戦闘の際に217人が強姦の被害にあったとの調査結果を今年1月に報告。2月には、安保理がこうした性暴力をふくむ市民への攻撃について「深刻な懸念」を表明した。

■記事で参照した資料と、関係箇所の抜粋

〈1〉元陸軍省法務局長の宣誓供述書「日本陸軍刑法には従来強姦罪の規定なく一般刑法に準拠して居り親告罪でありましたが斯くては軍の風紀取締上不十分であるために昭和17年……陸軍刑法の改正をなし強姦罪を非親告罪として其の刑罰をも加重せしめた」=「極東国際軍事裁判速記録第5巻」(雄松堂書店、1968年)

〈2〉「極東国際軍事裁判速記録第10巻」(同、1968年)

〈3〉「被告は1944年2月26日ごろ、スマラン市内で35人ほどの女性を慰安所4カ所に輸送することを命じた」「2月29日、女性ら5人に対し、不特定多数の日本兵との自発的な性交を拒否し続けるならば殺されるか、親族が報復を受けるだろうと脅迫し売春を強制した」=新美隆解説「オランダ女性慰安婦強制事件に関するバタビア臨時軍法会議判決」(日本の戦争責任資料センター「季刊戦争責任研究」3号、1994年)

〈4〉「南部セレベス売淫施設(慰安所)調書」〈「蘭(オランダ)軍々法会議検察官命」により1946年6月20日付で作成〉=女性のためのアジア平和国民基金編「政府調査『従軍慰安婦』関係資料集成第4巻」(龍渓書舎、1998年)

〈5〉セレベス会「戦後50年を迎えて 青春を生きたセレベス」(1996年)

〈6〉レギーナ・ミュールホイザー、姫岡とし子監訳「戦場の性 独ソ戦下のドイツ兵と女性たち」(岩波書店、2015年)

 

◇慰安婦問題を考える企画記事では、以下のテーマで特集記事を掲載してきました。

<2014年12月28~30日> 識者インタビュー

<15年6月2日> 識者座談会

<7月2日> 慰安所をめぐる公文書

<11月18日> 米国での慰安婦像・碑

<12月29日> 日韓合意までの経緯

<16年3月18日> 韓国での慰安婦と挺身(ていしん)隊の混同

<5月17日> 韓国人元慰安婦の軌跡

<11月30日> 植民地支配下の慰安婦動員

◇この特集は、編集委員・北野隆一、編集委員・中野晃、守真弓が担当しました。

 

http://digital.asahi.com/articles/DA3S12851586.html?rm=150

朝日「朝鮮半島では暴力的な連行の必要すらないほどシステム化されていた」 — 2017年2月5日

朝日「朝鮮半島では暴力的な連行の必要すらないほどシステム化されていた」

 

(社説)朴教授の判決 学問の自由侵した訴追

2017年1月27日05時00分

史実の探求に取りくむ学問の営みに公権力が介入することは厳につつしむべきである。

韓国・世宗大学教授、朴裕河(パクユハ)さんが韓国で出版した著書「帝国の慰安婦」をめぐる裁判で、ソウルの地裁は朴さんに無罪判決を言い渡した。

とかく日本との歴史認識問題に関しては、厳しい世論のまなざしに影響されがちだとの指摘もある韓国の司法だが、今回は法にのっとった妥当な判断をしたと言えるだろう。

この裁判は、「帝国の慰安婦」が元慰安婦らの名誉を傷つけたとして、検察当局が朴さんを在宅起訴したものだ。

判決は、検察が名誉毀損(きそん)にあたるとした35カ所のうち、大半が朴さんの意見を表明したにすぎないとし、他の部分についても特定の元慰安婦個人を指していないなどと指摘した。

また、朴さんが本を書いた動機は、日韓の和解を進めることにあり、元慰安婦の社会的地位をおとしめるためではなかったとして無罪判決を導いた。

著書が強調するのは、慰安婦となった女性には多様なケースがあったという事実や、植民地という構造が生み出す悲劇の数々である。

これまでの日韓の学界による研究の積み重ねにより、植民地の現実は様々な形で浮き彫りになってきた。朝鮮半島では暴力的な連行の必要すらないほど、慰安婦の募集などがシステム化されていた側面があるという。

韓国社会の一部に強く残る慰安婦のイメージと合わない部分があるからといって、歴史研究の中での見解や分析を封印しようとするのは誤りだ。まして、時の公権力が学問や表現の自由を制限することは、民主主義を放棄することに等しい。

しかし検察は昨年末、「学問や表現の自由を逸脱した」などとして懲役3年という異例の重い求刑をした。

検察は、そもそも訴追すべきではなかったことを反省し、慰安婦問題の議論の場を法廷からアカデミズムの世界に戻さねばならない。

一方、慰安婦問題をめぐる日韓両政府の合意は、ソウルの日本大使館前に続き、釜山の日本総領事館近くにも慰安婦問題を象徴する少女像が設置されたことで、存亡の危機にある。

日韓がナショナリズムをぶつけ合うのではなく、それを超えた和解が必要だというのが朴さんの一貫した主張でもある。

日韓双方にとって、対立の長期化がもたらす利益などない。両国関係を立て直し、進展させる意義を改めて考えたい。

http://www.asahi.com/articles/DA3S12767101.html?ref=editorial_backnumber

朝日 「総動員」の下で — 2016年12月4日

朝日 「総動員」の下で

(慰安婦問題を考える)植民地、「総動員」の下で

 戦時中に朝鮮半島で慰安婦を数多く集めることを可能にしたのは、日本の植民地支配下で人を動員する仕組みがあったからではないかと、日韓の研究者は指摘しています。慰安婦問題を考えるシリーズで今回は、植民地支配とは何だったのか、女性たちを動員するシステムはどうだったのか、といった点について考えます。

 ■食糧も働き手も、農村は疲弊

 日本は1910年、大韓帝国を併合。朝鮮人は19年の「3・1独立運動」などの抗日運動で抵抗したが、警察に鎮圧された。20~30年代は比較的穏健な統治で「文化政治」と呼ばれたが、歴代総督は軍人で、警察官の数はむしろ増やされた(資料〈1〉)。

 日本の植民地支配を理解するための言葉の一つが「総動員体制」だ。植民地朝鮮での総動員体制を研究する庵逧(あんざこ)由香・立命館大教授(朝鮮近代史)によると、日本は第1次世界大戦直後から政治や経済、社会など国家のあらゆる力を戦争遂行に結集させ「総力戦」を戦う「総動員体制」を構想。朝鮮・台湾などの植民地を組み込み、鉄道敷設や鉱山開発、ダムや工場建設などの整備を進めた(資料〈2〉)。

 動員は人や物資など多岐にわたった。37年に日中戦争が始まると、日本政府は38年に国家総動員法を制定。職業紹介法も改正し、戦争遂行のためどの業種にどんな人材を配置するかを政府主導で決めた。44年には国民徴用令が朝鮮にも全面発動されたが、それ以前から「募集」「官斡旋(あっせん)」の方式で労務動員がされた。

 食糧をめぐっては、朝鮮の人口の8割がいた農村が米供給地と位置づけられ、日本内地への移出用に強制供出も行われた。

 朝鮮史研究家の樋口雄一・高麗博物館長(東京)によると、朝鮮の米は39年や42~44年に凶作となり、インフレと食糧不足で農村の貧困が深刻化。天候不順に加え、当局が軍需物資供出を優先し、肥料や農具が不足した。朝鮮内外の工場や炭鉱、南洋の占領地などに働き手が多数労務動員された結果、農業が維持できなくなり一家離散するなどの例が相次いだ(資料〈3〉)。

 戦時下の農村の悲惨な状況は、内務省嘱託職員が44年6月に日本から朝鮮へ出張し、7月にまとめた「復命書」に描かれている。

 当局に命じられた供出量に足りず、家屋や牛を売って補う農家や、食糧が底をつき草や木の皮で食いつなぐ農家もあると報告。「戦争に勝つ為(ため)」に「国家の至上命令に依(よ)って無理にでも内地へ送り出さなければならない」としつつ、朝鮮人労務者の「人質的掠奪(りゃくだつ)的拉致等が朝鮮民情に及ぼす悪影響」に触れ、労務者を送り出した農村は老父母と女性ばかりとなり「悲惨な状態」と強調している(資料〈4〉)。

 30年代末に戦時色が強まると、朝鮮総督府は10戸前後を1班とする「愛国班」を組織。米の配給や勤労報国隊結成など日本内地の「隣組」と同様、国策を行きわたらせる単位とした(資料〈2〉)。神社参拝や日本語使用など、朝鮮人の日本臣民化を進める皇民化政策を推進。「創氏改名」で日本式の氏をつくらせた(資料〈1〉)。志願兵制度や徴兵制を導入し、朝鮮人への選挙権付与も進めようとした(資料〈5〉)。

 日本の敗戦後、朝鮮人の不満の矛先は朝鮮在住の日本人や行政組織末端の朝鮮人に向けられ、警察署や役所などが襲撃された。朝鮮半島外に動員された朝鮮人は戦後帰郷すると、日本人官吏に「強制的に徴用された」として慰謝料を要求したという(資料〈6〉)。日本の支配に、内心では反発していた朝鮮人が少なくなかったとみられる。

 韓国ARGO人文社会研究所の李淵植(イヨンシク)・研究理事によると、朝鮮にいた日本人の多くは朝鮮人を「従順な人々」と思い込んでいた。日本支配からの解放を喜んで「万歳」を叫んだり、日本人をののしったりする心情が理解できなかったという(資料〈6〉)。

 ■直接的暴力なくても可能に

 植民地での女性の動員はどのように行われたのか。

 台湾には、慰安所に女性を派遣するよう台湾総督府が依頼した文書が残る。36年に設立された国策会社「台湾拓殖株式会社」が39年に出した「海南島海軍慰安所の件」。中国南部・海南島の海軍慰安所に台湾から芸娼妓(げいしょうぎ)計90人を派遣するよう総督府から依頼があったとされる(資料〈7〉〈8〉)。

 鳥取県知事が44年、県内警察署や内務大臣、朝鮮総督府にあてた通達もある。飛行機工場建設で朝鮮人労務者が鳥取に約千人来ていた。その一方、鳥取市内の遊郭に約100人いた日本人酌婦が半減していたため、打開策として朝鮮人酌婦を20人移入した、との内容だ(資料〈9〉)。

 米軍がビルマ(現ミャンマー)で捕虜とした朝鮮人慰安婦らの尋問記録(資料〈10〉)には、42年に703人の朝鮮人女性が釜山を出航して東南アジアに送られたとの記述があり、朝鮮人慰安所管理人の日記にも符合する記述がある(資料〈11〉)。吉見義明・中央大教授は「戦時中に女性を多数、船に乗せて戦地に運ぶことは民間業者だけでは不可能。移送は軍が主導したことは明らか」とみる。

 軍需動員や労務動員については、軍や朝鮮総督府による計画が道、郡の行政機構を通じて地域に割り当てられた(資料〈2〉)。慰安婦の動員について庵逧教授は、元慰安婦らが「役所の職員や地元の巡査が来ていた」などと証言していることに着目。「業者だけで集落の状況を把握するのは難しい。家族構成を細かく知る地元の公務員や、地域の有力者が女性集めに加担した可能性はある」とみる。

 45年4~5月に米軍が捕らえた朝鮮人捕虜の尋問調書には、慰安婦問題についての質問がある。「日本軍が朝鮮女性を売春婦として募集したと知っているか。この制度に対する平均的な朝鮮人の態度はどうか。制度から生じた騒乱や衝突を知っているか」

 調書は米ハワイに収容された日本軍捕虜約2600人のうち朝鮮人約100人を尋問し、うち3人から詳しく聞き取ったものとみられる。捕虜らは「朝鮮人慰安婦は自ら志願したか、親に身売りされた。日本による強制的な徴集があれば許しがたい暴挙とされ、怒り狂った蜂起で日本人は殺されただろう」と答えている(資料〈12〉)。

 調書を米公文書館で確認した浅野豊美(とよみ)・早稲田大教授(日本政治外交史)は「朝鮮人捕虜らは、慰安婦を業者による詐欺や、家父長制下でのやむにやまれぬ人身売買の犠牲者とみていた」としている。

 外村大(とのむらまさる)・東京大教授(日本近現代史)も、官憲を直接出動させて暴力的に連れて行く方法については「朝鮮統治への影響や要員確保のコストを考えると、あったとしても例外的。日本人の役人が直接手を下さなくても、現地職員や地域の有力者、業者が動いて動員できた」とみる。「支配する日本人が支配される民族の上に立ち、思うように朝鮮人を用いることができるよう制度や社会を作り上げたこと自体が、植民地支配の核心だった」(資料〈13〉)

 女性たちの意思はどうだったのか。日本政府は93年8月の河野洋平官房長官談話で「甘言、強圧など本人の意思に反して集められた事例が数多い」との認識を示した。元慰安婦らの証言集には「路上で軍服を着た日本人に腕をつかまれ引っ張られた」とか「工場に就職させる」と言われてだまされた、といった内容が記されている(資料〈14〉)。

 ■「植民地支配なければ、大勢慰安婦にならず」 韓国・成均館大学東アジア歴史研究所客員研究員、韓恵仁さん

 韓国政府機関の調査官として、多くの元慰安婦や労務動員の事例を調査した成均館大東アジア歴史研究所客員研究員の韓恵仁(ハンヘイン)さん(49)に慰安婦がどう集められたのかを聞きました。

 「元慰安婦に、朝鮮から連れて行かれる前に何をしていたかを聞いた調査(2001年)があります。対象者192人のうち家事(手伝い)や家政婦、子守をしていた、と答えた人が計122人。食堂や妓生(キーセン)などの接待業で働いていた、との回答者は9人でした」

 「女性たちが農村の集落などからどのように連れ出されたのか。証言を検証すると、日本の炭鉱や軍需工場に動員された青年らと重なる点が多いと気づきました。人集めをする業者らに植民地統治機関の末端の職員や警察官、地域の有力者が協力していました」

 「総動員体制のもとで1940年以降にできた徴集の制度を探ると、統治機関から人集めの許可を受けた業者は労務動員の対象者を集める一方、酌婦や女給などの募集をすることもできました。『女給募集』などを掲げ、慰安婦にする女性が集められたと分析しています。元慰安婦への調査でも、過半数が『職業詐欺』により動員されたと答えています」

 「朝鮮では20年代ごろから婦女子の誘拐や人身売買が問題になっていました。30年代末には紹介業を名乗る男らが甘言で女性を農村から連れ出し、上海の遊郭などに売りとばしたとして逮捕され、盛んに報道された事件も起きます。不正の横行も背景に業者への統制が強まり、統治機関の管轄のもと、許可を受けた業者が『募集活動』を展開できたとみています」

 「『紹介所の慰問団募集に応募した』という元慰安婦もいます。野戦病院で洗濯など身の回りの世話をする旨の説明で応募し、中国などに送られ、軍人の性の相手もさせられたというものです。形としては『募集に応じた』ことになりますが、元慰安婦の立場からすれば『だまされた』と受けとれます。朝鮮半島から日本(内地)や中国、南方などへの渡航には証明書類が必要で、統治機関の許可や協力がなければ困難でした」

 「労務者も慰安婦も、動員の主な対象は支配言語の日本語も十分理解できず、だましやすい貧しい農村の青年や女性でした。『無理やり引っ張られた』と証言した元慰安婦もいて、末端では強引な手法が取られたことがうかがい知れます。植民地支配がなければ、大勢の女性が慰安婦に動員されることはなかったと考えます」

 ■植民地とは――

 本国の外にあって支配下にある地域。武力によって獲得される場合が多く、本国から国民の一部が移住して現地住民を従属させ、開拓や開発が行われる。16~20世紀、欧米列強や日本などによりアジア、アフリカや中南米の大部分が植民地とされたが、第2次世界大戦以降に次々に独立した。

 日本は日清戦争により、1895年の下関条約で清(当時の中国)から台湾の割譲を受けた。朝鮮(今の韓国と北朝鮮を合わせた朝鮮半島全域)に対しては、日露戦争以来、しだいに支配を強め、1905年に大韓帝国の外交権を奪った。10年の「韓国併合に関する条約」では、大韓帝国の皇帝が統治権を日本の天皇に「譲与」すると書かれた。いずれも、45年の敗戦まで日本が植民地として支配した。

 65年、日韓基本条約仮調印のため訪韓した椎名悦三郎外相が「両国間の長い歴史のなかに不幸な期間があったことはまことに遺憾で深く反省する」と発言。95年の村山富市首相談話では「植民地支配と侵略」により「とりわけアジア諸国の人々に多大の損害と苦痛を与えました」とし、「痛切な反省」と「心からのお詫(わ)びの気持ち」を表明した。

 ■記事で参照、引用した資料

 〈1〉趙景達「植民地朝鮮と日本」(2013年、岩波書店)

 〈2〉和田春樹ほか編「岩波講座 東アジア近現代通史第6巻 アジア太平洋戦争と『大東亜共栄圏』1935―1945年」(2011年、岩波書店)

 〈3〉樋口雄一「日本の植民地支配と朝鮮農民」(2010年、同成社)

 〈4〉小暮泰用「内務省管理局長宛『復命書』昭和19年7月31日」(1944年、外務省外交史料館所蔵・アジア歴史資料センター)

 〈5〉浅野豊美「帝国日本の植民地法制」(2008年、名古屋大学出版会)

 〈6〉李淵植著、舘野あきら訳「朝鮮引揚げと日本人」(2015年、明石書店)

 〈7〉朱徳蘭「台湾総督府と慰安婦」(2005年、明石書店)

 〈8〉日本軍「慰安婦」問題解決全国行動編「日本軍『慰安婦』関係資料21選」(2015年)

 〈9〉福井譲編「在日朝鮮人資料叢書7〈在日朝鮮人運動史研究会監修〉在日朝鮮人警察関係資料1」(2013年、緑蔭書房)

〈10〉東南アジア翻訳尋問センター「心理戦 尋問報告第2号 1944年11月30日」〈吉見義明編「従軍慰安婦資料集」(1992年、大月書店)所収〉

〈11〉安秉直編「日本軍慰安所 管理人の日記」(2013年、韓国)

〈12〉Military Intelligence Service Captured Personnel & Material Branch 「Composite report on three Korean Navy civilians, list no. 78, dated 28 Mar 45, re “Special questions on Koreans”」(1945年、米公文書館所蔵)

〈13〉外村大「戦後日本における朝鮮植民地支配の歴史認識」(「神奈川大学評論」第81号、2015年)

〈14〉韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編、従軍慰安婦問題ウリヨソンネットワーク訳「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(1993年、明石書店)

 ◇慰安婦問題をめぐっては、2014年12月に識者に連続インタビューし、15年6月に専門家の座談会を掲載しました。7月には日本軍で慰安所が設けられた経緯を軍や警察の公文書で検証し、11月には慰安婦碑・像の設置をめぐる米国での論争を伝えました。今年3月には慰安婦と「挺身(ていしん)隊」の混同など、韓国で慰安婦問題がどう伝えられたかを整理し、5月には韓国人元慰安婦の文玉珠(ムンオクチュ)さんの証言や記録から、戦前や戦中の足跡をたどりました。

 慰安婦問題での日韓合意をめぐる動きや、戦場における女性の人権の問題などを、今後も取材・報道していきます。

 ◇この特集は編集委員・北野隆一、中野晃が担当しました。

http://megalodon.jp/2016-1204-0907-27/digital.asahi.com/articles/DA3S12682484.html?rm=150

東岡徹 「残された時間は少ない」 — 2016年8月12日

東岡徹 「残された時間は少ない」

「慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた日韓に横たわる重要な問題であることは言うまでもない」

「残された時間は少ない」

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(@ソウル)少女像が移転される日
2016年7月30日00時00分 朝日

特派員リポート 東岡徹(ソウル支局員)

 「少女像」を取り囲むように大勢が座り込んでいた。警察当局によると約1千人。道路の向かい側では在韓国日本大使館の建て替え工事が進んでいる。7月27日昼、元慰安婦の支援団体「韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会」(挺対協)による慰安婦問題の解決を求める集会が始まった。

 参加者は黄色と紫の風船を手に持っていた。「12・28 慰安婦合意 全面破棄」。こうプリントされていた。少女像の移転を防ぐため、座り込みを続けている大学生のグループの代表はマイクを握り、「ここで少女像を守り、合意の廃棄まで行動する」と訴えた。

 挺対協は日本大使館前で1992年から毎週水曜に集会を開いてきた。2011年12月には1千回を迎え、「少女像」を建てた。

 集会終了後、挺対協の尹美香(ユンミヒャン)常任代表は記者団に対し、少女像について「追悼と記憶の象徴」と説明した。日本政府が移転を求めること自体が、「この歴史を消そうとする意図だ」と強調。移転に応じる考えがないことを繰り返した。

 ログイン前の続き少女像をめぐっては、日本政府は韓国政府に移転を求め続けてきた。日韓関係に悪影響を与えるうえ、外交関係に関するウィーン条約で規定する「公館の威厳の侵害」に関わる問題でもある。公道に設置されたが、地元の区の許可も得ていなかったという。

 設置直後に行われた11年12月の日韓首脳会談でも取り上げられた。当時の李明博(イミョンバク)大統領は野田佳彦首相に「(慰安婦問題で日本の)誠意ある措置がなければ、第2、第3の碑(像)が建てられる」と迫ったという。

 慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた日韓に横たわる重要な問題であることは言うまでもない。

 ただ、少女像の設置は日本で反発を生んだ。韓国の政府関係者や有識者の中でさえ、「少女像は外交上の欠礼だ」との声もある。

 挺対協は長年、慰安婦問題の早期解決を求めてきたが、少女像を設置したことでかえって、問題を複雑にした側面はないだろうか。

 こうしたなか、事態が動いたのは昨年12月の日韓合意だった。少女像について「韓国政府としても、可能な対応方向について関連団体との協議を行う等を通じて、適切に解決されるよう努力する」と盛り込まれた。

 とはいえ、移転は容易ではない。

 韓国ギャラップが合意直後の1月に実施した世論調査では、「移転してはならない」が72%にのぼった。韓国政府側も合意内容や財団について説明しようと挺対協側に接触を試みたが、それも断られた。韓国外交省関係者は「挺対協との面会も難しいのに、少女像の話し合いなんてできる状況ではない」と漏らす。

 韓国政府は合意に従って、少女像の移転に向けて努力しなければならない。しかし、今の状況で、日本側が強く移転を求めれば、韓国で合意に対する批判が広がりかねない。

 むしろ今、日韓両政府が直視しなければならないのは、元慰安婦の高齢化だろう。平均年齢は90歳近い。昨年12月の日韓合意からすでに6人が亡くなった。残された時間は少ない。

 日韓合意に基づいて元慰安婦を支援する「和解・癒やし財団」が7月28日に設立された。財団は元慰安婦の名誉を回復するなどの事業に取り組む。今は事業を一日も早く始め、着実に実施していかなければならない。

 日本政府も財団が事業を実施するために、資金10億円を拠出する。そのあとは「高みの見物」というわけにはいかない。

 日韓合意では財団による事業が着実に実施されるとの前提で、慰安婦問題が「最終的かつ不可逆的に解決される」ことを確認した。財団の事業の遅れは日本にとっても得にならない。日本側も着実に事業が実施されるよう協力しなければならない。

 日韓が協力して、まずは財団が一つずつ実績を積み重ねる。実績を通じて、韓国で合意に対する理解を広げる。こうした理解が少女像の移転につながると思う。

     ◇

 東岡徹(ひがしおか・とおる) 1997年入社。大阪社会部、東京政治部などをへて、2014年4月から現職。

http://digital.asahi.com/articles/ASJ7R777PJ7RUHBI02J.html?_requesturl=articles%2FASJ7R777PJ7RUHBI02J.html&rm=452