慰安婦像展中止は「病理」か 朝日への違和感 — 2019年8月14日

慰安婦像展中止は「病理」か 朝日への違和感

【河村直哉の時事論】慰安婦像展中止は「病理」か 朝日への違和感

 慰安婦の象徴とされる少女像などを展示して中止になった「あいちトリエンナーレ2019」企画展で、朝日新聞社説に極めて強い違和感を覚えた。「あいち企画展 中止招いた社会の病理」とする8月6日付社説である。

 非常識な展示が中止になったことを、「社会の病理」だといっている。筆者には、慰安婦報道で朝日に寄せられたごうごうたる批判をも「病理」だといっているように読めてしまう。

批判は常識感覚の表れ

 社説はこう書いている。「一連の事態は、社会がまさに『不自由』で息苦しい状態になってきていることを、目に見える形で突きつけた。病理に向き合い、表現の自由を抑圧するような動きには異を唱え続ける。そうすることで同様の事態を繰り返させない力としたい」

 企画展には慰安婦を象徴する少女像や、昭和天皇の肖像を燃やす映像も展示されていた。税金が投じられ、開かれていたのは公的な場所である。まずもって常識感覚として、このような展示会はおかしい。

 実行委員会には批判が殺到した。なかには「ガソリン携行缶を持っていく」などの脅しがあり、男が逮捕された。このような脅しが許されないことはいうまでもない。

 しかしそのような悪質なものばかりだったのか。非常識な展示会に批判が相次いだことは、国民の常識感覚の表れである。それを「『不自由』で息苦しい状態」といい、「病理」とまで断じる感覚はおかしい。

 朝日社説は、今の政治や社会に疑問を持つ人も税金を納めているのだから、公金や公的施設を使っているからという批判は間違いだという。さまざまな層のニーズをくみ取って税金は使われるべきだ、と。

 どうしてそういう思考回路になるのだろうか。昭和天皇の肖像を燃やしたり、「sexual slavery(性的奴隷制)」などの説明文を付けた少女像を展示したりすることは、日本の象徴と内実である天皇、歴史を傷つけ、日本の公共性を破壊しようとすることなのである。たとえば日本の公教育の教科書にこのようなものが掲載されていたとしたら、その逸脱ぶり、反公共性ぶりは明らかだろう。社会を破壊しようとするものに公的な金や場所を使うべきではない。

自由は無制限ではない

 河村たかし名古屋市長が展示中止を求めたのに対し、トリエンナーレ実行委員会長を務める大村秀章愛知県知事は「表現の自由を保障した憲法21条に違反する疑いが極めて濃厚ではないか」と述べた。朝日社説も、憲法の表現の自由を持ち出して市長を批判している。

 しかし表現の自由は決して無制限のものではない。12条は、憲法が国民に保障する自由と権利を国民は濫用(らんよう)してはならない、としている。13条は、自由などの国民の権利は、公共の福祉に反しない限り、国政の上で最大の尊重を必要する、としている。

 表現の自由は公共の福祉の制約を受けるのである。「チャタレイ夫人の恋人」翻訳出版のわいせつ性が問われた裁判で、最高裁は昭和32年、表現の自由は重要だが公共の福祉によって制限される、としている。

 それでも朝日が、企画展の中止を招いたものを「社会の病理」とまで書くのは、なぜか。自らの慰安婦報道に浴びせられた世間の批判から、自らを正当化しようとしていると読まれても、しかたないのではないか。あれも「社会の病理」であった、と。

本質は変わらないのか

 朝日は慰安婦を「強制連行」したという故吉田清治証言をしばしば取り上げるなど、慰安婦問題についてキャンペーン的な報道を展開してきた。平成26年8月、問題を検証し、吉田証言を虚偽として記事を取り消した。しかし日本をおとしめながら取り消しが遅きに失したこと、謝罪がないことなどに批判が集中、第三者委員会を設置して検証を委ねた。

 同年末に委員会が報告書を出した際、渡辺雅隆社長が紙面で書いている。「誤報を長年放置したのは、批判に正面から向き合わなかった結果であり、謙虚さに欠けていたと思います」「吉田氏の証言に関する記事を取り消したのに謝罪しないという誤った判断をしました」

 断っておくと筆者は朝日に限らず、立場が違っても、同業他社の仕事にはそれなりの敬意を払っている。良質な仕事をしていると思う報道は多いし、参考にさせてもらうこともしばしばある。しかし過去の朝日には偏った記事が多く、慰安婦報道はそのひとつだったというのが率直な認識である。

 筆者の印象では、慰安婦問題ですさまじい批判を浴びた後、朝日の紙面は表面上はおとなしくなった。しかし偏った企画展が中止に追い込まれたことが「社会の病理」とまでいうとは、本質はなにも変わっていないのではないかと思えてくる。

 朝日が平成26年に慰安婦問題を検証したとき、その姿勢に怒っていた人たちを筆者は大勢知っている。重ねていうが脅しをかけるなど論外である。許されない。しかしあのとき怒っていたのは、決してそんな人たちではない。知識人もいたが、それ以上にごくふつうの男性、女性が怒っていた。

 常識的な日本人が怒っていたのである。日本のなかで日本をおとしめようとする倒錯に対する怒りだった。その人たちに「病理」などかけらもない。日本を大切にしようと思っている人ばかりだった。

 それを「病理」というなら、朝日がむしろおかしい。

(編集委員兼論説委員)https://www.sankei.com/premium/news/190814/prm1908140008-n1.html

「慰安婦像」展、公金イベントで適切だったか(産経 — 2019年8月4日

「慰安婦像」展、公金イベントで適切だったか(産経

「慰安婦像」展示の企画展中止、公金イベントで適切だったか
2019.8.4 21:01
https://www.sankei.com/life/news/190804/lif1908040034-n1.html

愛知県で開催中の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」で、企画「表現の不自由展・その後」が元慰安婦を象徴した「平和の少女像」などを展示し、開幕3日で中止に追い込まれた。展示内容は偏った政治的メッセージと受け取られかねず、公金を使ったイベントとして公平性に欠ける不適切な内容という印象を受けた。

 「表現の不自由展-」会場の愛知芸術文化センター(名古屋市)では4日、企画の中止を知らせる案内が掲示された。

 中止に至った企画は、平成27年に東京のギャラリーで開かれた「表現の不自由展」が原型だ。過去に公立館などで撤去または展示を拒否された作品を集めたもので、その展示に関心を持った芸術祭の芸術監督でジャーナリストの津田大介氏が新たな作品を加えた「その後」展を芸術祭に組み入れた。

 その中で設置された韓国の彫刻家夫妻による「平和の少女像」は、ミニチュア版が24年に東京都美術館で展示され、「運営要綱に抵触する」として撤去された経緯がある。この像が韓国の反日感情をあおる象徴となっているのは周知の事実だ。

 「表現の不自由展-」ではこのほか、昭和天皇をモチーフにした版画や映像、沖縄の米軍機墜落事故を題材にした絵画、国旗をあしらい政治の右傾化を批判した政治色の強い立体作品なども並んでいた。

 津田氏は開幕前に「『実物』を見ることで、表現の自由や検閲の問題について考える契機にしてほしい」と説明。県の担当者も「政治的賛否やイデオロギーを問うものではない」と述べたが、展示や解説内容に恣意(しい)的な面が否めず、だからこそ不快だとする抗議の声が県などに殺到したのだろう。

 津田氏は、展示中止が発表された3日の記者会見で「想定を超えた抗議があった」と明かした。強迫めいた抗議は論外だが、幅広い層の人々が鑑賞する公的な芸術祭だけに、表現の自由は無制限ではない。芸術や表現の自由を隠れみのにした政治的プロパガンダ(宣伝)だとすれば極めて悪質だ。

 3年に1度開かれる同トリエンナーレは国内最大規模の都市型芸術祭として知られ、4回目の今回は名古屋市と豊田市を会場に、国内外から90組以上のアーティストが参加。美術、音楽、映像などが展開され、外国人労働者や生命倫理の問題など、全体として社会批評性に富んだ良質な作品も多い。ごく一部分である「表現の不自由展-」が、こうした内容を霞(かす)ませるとしたら実に不幸だ。(黒沢綾子)