秦郁彦 — 2016年5月30日

秦郁彦

秦郁彦

米軍もさんざ日本じゃ慰安させ
――朝日川柳――
再燃した慰安婦狂騒曲

 二〇〇七年三月六、七日の日本共産党機関紙『赤旗』は、「安倍首相『慰安婦』発言に世界から批判」の大みだしで、海外支局を動員して「事実を認めよ―中国外相『適切処理を』」「米NYタイムズが社説――事実ねじまげた日本恥をさらしている」のような記事を並べ、加えて「韓国6紙が批判社説」に「強制性もつのは明らか」という市田党書記局長の首相批判を添えていた。

 四月末の首相訪米をにらんで慰安婦問題に関する対日非難決議が米下院本会議で可決されそうな情勢なので、二月中旬頃から内外の新聞が興奮気味に書きたてていた。そのなかで、記事量がもっとも多い『赤旗』から引用させてもらったのだが、他の全国紙も負けていなかった。

秦郁彦
 読売、産経はおとなしめだが、毎日は三月八日の社説で「『河野談話』の継承は当然だ」と書いた。すでに六日の社説で「いらぬ誤解を招くまい」と題して、毎日とほぼ同主旨の主張を打ち出していた朝日は十日の社説で、「日本は北朝鮮による拉致を人権侵害と国際社会に訴えている。その一方で、自らの過去の人権侵害に目をふさいでいては説得力も乏しくなろう」と、北朝鮮国営放送に似た拉致と慰安婦の相殺論まで打ち出すに至った。

 それでも毎日は下院決議の不成立を望んでいるようだが、対応策としては「従軍慰安婦問題で謝罪してきたわが国の立場をていねいに説明することだ」としか述べていない。どうやら決議を阻止する知恵の持ち合わせはないらしい。これでは、日米開戦前に喧伝された「ABCD包囲陣」で追いつめられた状況と同じではないか。

 米下院決議には法的強制力はないのだから、静観し放置せよとか、ひたすら謝りつづけようという意見もあるらしいが、ここまで過熱した事態を収拾するには、この策は通用しないと私は考える。代りに速効性のある反撃策を提案したいが、その前にざっと内外環境の情勢分析をしておこう。

今回の決議案は五回目

 一言にしていえぱ、慰安婦問題はさまざまな思惑を秘めた内外の諸勢力が提起した政治問題である。クラウゼヴィッツ流に定義すれば、「他の手段をもってする政治の継続」ということになろう。だから、流血こそないものの、事実関係は棚にあげて甘言、強圧、だまし、トリックなど何でもありの秘術をつくした政治的かけひきが横行する。

 それに慰安婦問題は浅間山や桜島に似た火山のようなもので、一九九一年から九二年にかけての大噴火が、河野談話(九三年)やアジア女性基金による「償い金」の支給で収まったかと思えば、昭和天皇を有罪と宣告した女性国際戦犯法廷(二〇〇〇年)やその番組製作をめぐるNHK対朝日新聞の泥仕合(二〇〇五年)などで間歇的に噴煙を吹きあげる状況がつづいてきた。休火山というより活火山なのかもしれない。

 最新の噴火が今回の下院決議案をめぐる騒動なのだが、噴煙は数年前からカリフォルニア州やワシントン周辺でくすぶっていた。正確に言えば今回の決議案は五回目(一説では八回目)である。

 提出してもそのつど不成立ですんでいたのだが、昨年四月に提出された決議案(レイン・エバンス議員が主導)は九月に委員会は通過したものの、本会議へ行くことなく年末に廃案となった。さすがに委員会通過であわてた在米日本大使館が、ロビイストを雇って工作した成果だともいう。

 しかし引退したエバンス議員を引きついだ日系三世のマイク・ホンダ議員が本年一月三十一日に、同じ主旨の決議案を下院外交委員会へ提出、二月十五日には小委員会で元慰安婦三人が出席した公聴会も開催された。在米大使館はホンダ議員の意気ごみから、こんどは危いと感じたのだろう。

 加藤大使みずから反論書簡を下院に届けるなど採択阻止工作に乗りだすが、「日本政府は安倍首相が河野談話の継承を表明しているし、首相のお詫びをくり返してきた実績を認識して欲しい」と、ひたすら低姿勢の懇願調に終始したので効果は乏しく、共同提案議員は当初の六人から二十五人(二月末)へ、ついで四十二人(民主党三十二人、共和党十人、三月十二日現在)へと急増してしまった。

 昨年秋の中間選挙で民主党の「リベラル人権派」が外交委員会の委員長と同小委員長に就任したこともあり、今回は採択される公算が大きいと予想されている。

 では決議案を主唱しているマイク・ホンダとはどんな人物なのか、何を狙っているのか、突然の登場だけに手持ちの情報が乏しいので、ネットで検索してみた。すると同じ思いか、「ホンダとは誰だ?」式の論議が飛びかっている。

 日系人なのに、なぜ反日的行動を主導しているのかという違和感が先に立つのか、「日系人になりすまし」「本当は朝鮮系らしい」「ベトナム系中国人か」「経歴不詳の怪人物」といったぐあいだが、かりにも情報公開大国のアメリカで出自定かならぬ議員がいるはずはないと探してみたら、本人のウェブサイトにきちんとした身上記録が見つかった。れっきとした日系アメリカ人であることが確認できたので、つぎに略歴と政治活動の背景を紹介しよう。

ヘイデン法、主導者の一人

 ホンダは一九四一年六月、カリフォルニア州サンフランシスコ近くのウォルナット・グローブに食料品店を営む日本人を両親として生れ、半年後の日米開戦でコロラド州の日系人収容所に入る。一九五三年からストロベリー摘みに転じた両親とサンノゼに住み、地元の高校、州立大を経て、七四年大学院で修士号をもらい教師の道へ進む。

 その間に平和部隊の一員としてエルサルバドルで二年活動、その後は校長、教育委員を経て一九九六年、カリフォルニア州下院議員に選出され、九九年に成立したヘイデン法を主導した一人となる。

 ヘイデン法とは日本の「戦争犯罪」に対し、在米の日系企業を誰でも提訴できるとする州法で、総額百二十兆円の補償要求が出たが、連邦最高裁まで争い違憲と判定され敗退した途方もない悪法である。「戦争犯罪」には捕虜虐待、南京事件、慰安婦まで含まれていたから、二〇〇〇年から連邦下院議員となった彼にとって下院決議案はあきらめきれぬ宿願なのかもしれない。

 ホンダの政治活動にはサンノゼを中心とするシリコン・バレーを選挙区(第15区)としている事情も影響しているようだ。この地域はスペイン系のほか中国系、韓国系、ベトナム系の住民が多く、アジア系の人口比率が本土では最高の二九%を占めている。

 日系米人の対日心理も、考慮する必要があろう。白人の研究者から「アメリカにいるアジア系アメリカ人で母国の悪口を聞いて怒り出さない者はいないが、日系人は平気で、反日運動に加担する人さえいる。なぜだろうね」と聞かれたことがある。

 答えかねて、「日本に住む日本人でも反日家は少なくないからねえ」と逃げたが、最近は日系人のアイデンティティは消えつつあり、アジア系に吸収されてしまったと指摘する専門家もいる。ホンダ議員を支えているのも、広義のアジア系意識なのかもしれない。

 もちろん政治家である以上、彼が口にするのは美辞麗句ばかりである。彼の公式サイトから拾うと「正義の実現は日本のためになる」「カ州アジア人のコミュニティ拡大のなかで、横のつながりを阻んでいるものが過去の戦争の記憶なのだ」「平和な国際社会を育成するために、過去の問題を解決する和解を、われわれの世代が呼びかけるべきだ」のようなものだが、「日本叩き」で他のアジア系を結束し票固めをするのが本音かなと思わせる。

「彼は中国での人気が高い。また彼の活動には多くの在米韓国人が支援し協力を寄せている」という『朝鮮日報』のホンダ評はこのあたりを言い当てているかに見える。

 実際にホンダと連帯して下院決議案を推進してきたのは、ワシントンに本拠を置く「慰安婦のためのワシントン連合」の会長で、米地方裁判所に提訴した十五人の慰安婦の裁判闘争を支援してきた朝鮮系のソー・オクチャ博士である。

 二月十五日の公聴会も、三人の元慰安婦の証言が目玉になっているとはいえ、議事録を見ると真打ちはしめくくりの大演説をぶったソー女史と見てよいのかもしれない。内容から判断して、次に摘記した対日非難決議案(『赤旗』特派員・鎌塚由美記者の訳文)は彼女の起草かと推定する。

二十世紀最大の人身売買

 決議一二一号

 日本政府による軍事的強制売春である「慰安婦」システムは、その残酷さと規模の大きさで前例のないものと考えられる。集団レイプ、強制妊娠中絶、辱めや性暴力を含み、結果として死、最終的には自殺に追い込んだ二十世紀最大の人身売買事件になった。

 日本の学校で使用されている新しい教科書のなかには、「慰安婦」の悲劇や第二次世界大戦中の日本のその他の戦争犯罪を軽視しているものもある。

 日本の官民の当局者たちは最近……河野談話を薄め、もしくは無効にしようとする願望を示している。……このため、以下、下院の意思として決議する。

 日本政府は、

(1)日本帝国軍隊が若い女性に「慰安婦」として世界に知られる性奴隷(Sexual Slavery)を強制したことを、明確にあいまいさのないやり方で公式に認め、謝罪し、歴史的責任をうけいれるべきである。
(2)日本国首相の公的な資格でおこなわれる公の声明書として、この公式の謝罪をおこなうべきである。
(3)日本帝国軍隊のための性の奴隷化および「慰安婦」の人身売買はなかったといういかなる主張にたいしても、明確、公式に反論すべきである。
(4)「慰安婦」にかんする国際社会の勧告に従い、現在と未来の世代に対しこの恐るべき犯罪についての教育をおこなうべきである。
 読んでいるうちに口汚なく日本を罵る北朝鮮の国営テレビを思い出して気分が悪くなったが、多少の解説を加えると、(2)は在米大使館が歴代首相の謝罪を強調していることへの当てつけか。首相個人ではなく、内閣や国会の総意を代表しての公式謝罪でなくてはというのだが、受け入れたとしても「(今までは)本当の謝罪ではなかった」(下院小委員会のファレオマバエガ委員長)とか「天皇が全戦争犯罪に対し、より力強い謝罪をすべきだ」(三月七日付ロサンゼルス・タイムズ社説)式にとめどなくエスカレートする可能性が残る。

(3)はホロコースト(ユダヤ人の大量虐殺)に対する異論を、法的に処罰できるドイツの例を見習えという示唆とも読める。河野談話を薄めようとする者も、処罰の対象になるらしい。

(4)は前文で日本の教科書への苦情を述べているところから察すると、必ず慰安婦のことを書けとの注文かもしれない。

李容沫の「家出」

 いずれにせよ、「内政干渉」の見本と呼べそうな要求だが、下院小委員会のファレオマバエガ委員長(民主党、米領サモア出身の准議員)は『赤旗』(三月九日付)の鎌塚記者へ、「強制性を裏付ける証拠がなかったのは事実だ」との安倍首相発言に反発して「私は、河野談話をしっかり読みました……首相は、談話の根拠となった(日本政府の)調査を信じていないというのでしょうか」と語り、「決議案の意味は、公聴会で元『慰安婦』の女性たちが語ったことがすべてだと思います」と述べている。

 どうやら決議案を支える二本柱は、河野談話と公聴会での慰安婦証言と見受けるが、前者の問題点は後まわしにして後者のほうから検分してみよう。

 公聴会が開催されたのは二月十五日、議事録によると場所は下院ビルの二一七二号室、主催は下院外交委員会の太平洋・地球環境小委員会、論題は「慰安婦の人権保護」となっている。

 会は小委員長の挨拶につづき、パネル?がホンダ議員の主旨説明、パネル?が元慰安婦の李容沫(Lee Yong Soo)、金君子(Kim Koon Ja)、ヤン・ルフ・オヘルネ(オランダ出身、現在は豪州居住)の証言、パネル皿は支援組織のミニー・コトラー、ソー・オクチャ(既出)の陳述の順で進行した。

 三人のうちオヘルネは一九四四年ジャワ・スマランのオランダ民間人抑留所から日本軍部隊の慰安所へ連行され売春を強制されたが、気づいた軍司令部の命令で二カ月後に解放され慰安所は閉鎖された。

 オランダ軍事法廷は戦後に責任者十一人へ死刑(一名)をふくむ有期刑を科したので、法的には六十年以上も前に終結した事件である。

 残りの二人は韓国人女性だが、ここではソウルの「ナヌムの家」に住み、語り部として訪日経験も多い李容沫の証言(要旨)を議事録から紹介したい。気になる個所に傍線を引いておいた。

「私の前半生」

 一九二八年十二月、大邸生れ。男五人、女一人の九人家族だが、貧しかったので学校は一年しか行かず、十三歳の時から工場で働く。一九四四年秋、十六歳の時に女友達のキム・プンスンと川辺で貝拾いをしていた時、丘の上から年長の男が私たちを指し、連れの三十歳代の日本人がやってきて誘った。おびえた私は走って逃げたが、数日後の早朝にキムが窓を叩いて小声で誘った。

 私は母に黙ってスリッパでそっと抜け出すと、数日前に見た日本人がいた。彼は人民軍のような服(People,s Army uniform)に戦闘帽をかぶり、三人の少女が一緒だった。合流して五人になった我々は駅から列車で平壌を経由して大連へ向った。途中で帰りたいと泣いたが拒否された。

 十一隻の船団に乗り、船中で四五年の元旦を迎えた。上海に寄ったあと台湾へ向ったが、途中で爆撃に会い乗船に爆弾が一発命中した。大混乱の最中に同船していた日本兵にレイプされた。これが私にとって最初の性体験である。

 船は沈みかけたが何とか助かり、私は血まみれで台湾に上陸した。同行した慰安所の主人(妻は日本人)は「おやじ」と呼ばれたが、時に暴力をふるわれた。

 新竹の慰安所ではトシコと名のり、毎日四、五人の兵士に性サービスした。そのうち性病にかかり、なじみの特攻パイロットにうつしてしまったが、彼は「君の性病は明日突っこむ僕へのプレゼントと考えるよ」とやさしかった。

 終戦となり、四人の仲間とともに帰国、両親にも私の体験を語らないまま、飲み屋で働いたり魚の行商、保険の外交員などをして戦後をすごした。

朝鮮人による「騙し」

 公聴会にひっぱりだした以上、目をそむけるような陰惨なエピソードのオンパレードだろうと覚悟して読みはじめた私は、いささか拍子抜けした。涙もあれぱ笑いもあって、テレビ局が飛びつきそうなメロドラマ風の筋立てではないかというのが率直な感想だが、彼女たちの身の上話には女工哀史を題材にした「ああ野麦峠」の百円工女のように成功美談風の物語も珍しくない。

 波乱万丈の一代記を出版した文玉珠(故人)もそのひとりで、ビルマでは「利口で陽気で面倒見のいい慰安婦」として将軍から兵隊までの人気を集め、三年足らずで二万六千余円の貯金ができ、五千円を仕送りしたという。本当なら、在ビルマ日本軍最高指揮官より多く稼いでいたことになる。

 もっとも彼女は一九九二年に時価修正しての払い戻しを日本の郵便局へ請求したが、断わられる不運な目にも遭っている。

 李容沫の場合は戦争末期なので仕送りするどころか、ただ働きに終ったろうと想像するが、動機は民間業者の甘言に乗せられた家出娘としか思えない。

 ではもうひとりの金君子はといえば、十六歳で養父のチョイ(朝鮮人警察官)からカネを儲けてこいと追い出され、「軍服」を着た朝鮮人の男からカネになる仕事があると言われ貨車に乗せられて、と申し立てている。本人が業者に騙されたか、養父が前借とひきかえに業者について行くよう命じたかのどちらかで、日本人はまったく登場しない。

 両人とも官憲による強制連行の影も見えず、朝鮮人による「騙し」と断定できる。なぜならそのころ朝鮮半島に居住していた日本人で、甘言を弄して朝鮮人女性を騙せるほど朝鮮語が話せる者は、皆無に近かったからだ。

 私が目にした元慰安婦たち数十人の証言は、多くが李や金の申し立てと大同小異だが、支援団体などが都合にあわせて手を入れるせいか、同一人なのに数通りの身の上話が流通する例は珍しくない。

 とくに連行事情が食いちがってはまずいと考えたのか、女性国際戦犯法廷の報告書は「参加被害者の略歴」欄から誰が騙したか、連行したかの主語を削り落してしまった。くだんの李容沫の場合も31頁の表1が示すように、連行事情について数通りの筋書きが「カムアウト」している。

 年齢、連行した男の素姓や服装の誤差は別として、大別すれば「家出」(1、6)と「強制連行」の二種になる。いずれも多かれ少なかれ「騙し」の要素がからむ。正反対に近い二種のいずれが真相に近いかと聞かれれば、公聴会の6は「赤いワンピース……」が抜けているだけで、デビュー直後の1とほぼ同じなので「家出」が正しいと答えたい。

「強制連行」のほうは支援組織やマスコミへのサービス発言だろうと推測するのは、細部の食いちがいが多すぎること、公聴会での証言からわずか六日後の参議院議員会館や二週間後の外国特派員協会などでは正反対の陳述を使いわけているからである。
 その間に「約束がちがう」と貴められたのか、参議院の集会では新立法運動を進めている福島瑞穂、岡崎トミ子、土屋公献、円より子氏らの顔を立てて典型的な「女郎の身の上話」を語ったのだろう。

 日本政府が慰安婦や慰安所の存在を否認していると思いこんでいるらしい彼女としては、「私が生きた証拠です」(living witness)と主張するのが眼目で、騙した男の素姓とか、沈みかけている船上でレイプされた話を信じてもらえるかどうかは関心の対象外なのではあるまいか。

 理解しかねるのは、韓国だけでまだ百十四人も生き残りがいるのに、公聴会をテコにして決議案を通そうとしているホンダ議員たちが、なぜ「性奴隷」の見本としてはふさわしくない慰安婦を証人に選んだのかという疑問だ。

 それにこの程度なら朝鮮戦争やベトナム戦争の帰還兵から、「われわれが通った米軍専用慰安所と変りないじゃないか」と異議が出るリスクもあるというもの。

 だが信仰にも似た先入観は恐ろしい。李や金を強制連行の犠牲者と思いこむ人士は多く、シーファー駐日アメリカ大使でさえ記者会見で彼女たちを「信用できる証人」(Credible Witnesses)と公言(三月十六日付NYタイムズ)したのには仰天した。

終戦三日後に特殊慰安施設

 そこでついでながら、日本軍以外の「戦場の性」の実状をのぞいてみよう。詳細は拙著『慰安婦と戦場の性』(新潮選書、一九九九年)にゆずり、ここではアメリカの日本占領期、朝鮮戦争、ベトナム戦争における米兵の性行動に絞る。

 米軍占領期の日本人慰安婦の生態についてはドウス昌代『敗者の贈物』、いのうえせつこ『占領軍慰安所』や各県の警察史など参考文献は少なくないが、「良家の子女」を守るため内務省の発案で有力業者に話をつけて「特殊慰安施設協会」(RAA)が組織されたのは、終戦から三日後という機敏さだった。

 大蔵省の緊急融資で東京大森の小町園に第一号が開店したのは一九四五年八月二十七日。朝日新聞などに出た「急告 特別女子従業員募集 衣食住及高給支給、前借にも応ず」の募集広告に応じて、千数百人の女性が集まった。

 最初は女性一人につき一日最低十五人から最高六十人までの米兵を相手にさせられたが、全国でピーク時には七万の女性が集まり、混雑は緩和された。一対一で囲われる「オンリーさん」は、彼女たちの出世頭ともいえる。

 それでもレイプする米兵は絶えなかったが、米軍から報道を禁じられた日本の新聞は「犯人は背の高い男」と書き、憂さを晴らした。

 一九五〇年に起きた朝鮮戦争で在日米軍の主力は朝鮮半島に出動、三年後に休戦となったが、それいらい半世紀にわたって在韓米軍の駐屯がつづく。韓国政府のお膳立てで基地周辺には米兵用の売春婦が群がり、彼女たちは米軍の強制検診を受け安全カードが必携とされている。

 米軍司令官のなかには買春抑制を指令した例もあるが、互助会がストをうって米軍を屈伏させた話もある。

 韓国政府の発表だと二〇〇二年の売春従事者は三十三万人、売上額は二兆四千億円、GDPの四・一%に達する(『東京新聞』二〇〇三年二月七日付)という。今でもつづく繁昌ぶりに米兵の寄与率は決して低くはないだろう。

 買春に関わっているのは韓国軍も同様で、二〇〇二年二月には立命館大学の国際シンポジウムにおける韓国の女性研究者(金貴玉)の報告は、慰安婦問題に関わっている日本のフェミニストたちに少なからぬ衝撃を与えたと、山下英愛(同大講師)は書いている(『週刊金曜日』〇二年八月九日号)。

韓国政府の頭痛の種

 金貴玉氏は韓国軍が経営する慰安所があった事実を九六年頃から突きとめていたが、「日本の右翼に利用される」ことを恐れて発表を控えてきたのだという。彼女の発表によると、韓国陸軍本部が一九五六年に編纂した朝鮮戦争の『後方戦史(人事編)』に固定式慰安所――特殊慰安隊があり、慰安婦は「第五種補給品」の名目で部隊にあてがわれた。そして五四年三月までに四カ所で八十九人の慰安婦が年間二十万四千五百六十人の兵士を相手にしたとされる。

 韓国を告発する韓国人は他にもいる。ベトナム戦争で勇猛ぶりを発揮した韓国兵は「ベトナム人殺しと女買いの悪いイメージを残したのです……ベトナムに対して韓国は、三十数年間、過去を清算しなかったのです」(『世界』九七年四月号)と指摘したのは韓明淑女史だが、五千人とも三万人ともされる混血児の後始末は韓国政府には頭痛の種らしい。

 しかし何といっても、ベトナム戦争の主役は米軍である。サイゴン(現ホーチミン)を中心にベトナム人女性による売春産業は繁栄をきわめた。米軍の公式戦史はもちろん新聞も、この領域にふみこんだ記事はほとんど報道していない。

 幸いライケに駐屯した第一師団第三旅団(兵力四千)の駐屯キャンプにおける慰安所の実況について、スーザン・ブラウンミラーがピーター・アーネット記者(ピューリッツァー賞受賞者)に試みたヒアリングがあるので、次に要旨を紹介しよう。

米軍の性病感染率

 一九六六年頃までに、各師団のキャンプと周辺には「公認の軍用売春宿(Official military brothels)」が設置された。ライケでは鉄条網で囲まれたキャンプの内側に二棟の「リクリエーション・センター」があり、六十人のベトナム人女性が住みこみで働いていた。

 彼女たちは米兵の好みに合わせて『プレイボーイ』のヌード写真を飾り、シリコン注射で胸を大きくしていた。性サービスは「手早く、要領よく、本番だけ(quick,straight and routine)がモットーで、一日に八人から十人をこなす。料金は五〇〇ピアストル(二ドル相当)で、女の手取りは二〇〇ピアストル、残りは経営者が取った。

 彼女たちを集めたのは地方のボスで、カネの一部は市長まで流れた。この方式で、米軍は「ディズニーランド」とも呼ばれた慰安所に手を汚していない形にしていたが、監督は旅団長で、ウエストモーランド司令官もペンタゴンも黙認していたのである。

 女たちは週ごとに軍医の検診を受け、安全を示す標識をぶらさげていたが、それでも米兵の性病感染率は千分比で二〇〇(一九六九年)に達していた(Susan Brownmi-ller,Against Our Will,1975,PP.94-95)。
 長々と引用したのは、米軍がコピーしたのかと思うほど日本軍慰安所の生態と瓜二つなので、この本を読めば米下院議員の諸氏に対する説得が省略できると考えたからでもある。ただし、女の取り分は日本軍のほうが良かった(五割以上)かわりにシリコン注射の技法はなかったことを付け加えておきたい。ベトナム戦争末期には、この種の女性たちが三十―五十万いたと書いているシンシア・エンローの著書も参考になる。

 こうした比較考察から引きだせる対策として、ブラウンミラーの著書の数ぺージを配るというしごく単純な手法がある。

 そしてマイク・ホンダ議員たちヘアメリカに対日非難の資格ありやと問うて決議案を取りさげてもらうか、非難の対象を「日本政府」から「日米両国政府」に修正するよう働きかけるのはどうだろう。

 効果があるかねえと冷かされそうだが、成否の問題ではない。何を言われても謝るか、泣き寝入りする習性が身についてしまった戦後日本人に、不当な言いがかりには言い返す気力を持たせるきっかけにするだけでも意義があると思うのだが――。

裏目に出た河野談話継承

 さてホンダ議員たちへの働きかけは、とりあえずの頓服薬にすぎず、中長期的には河野談話の撤回ないし修正が課題だろう。

 その動きは談話の直後から断続してきたが、最近になって保守派議員で構成する自民党の「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」(中山成彬会長)の「慰安婦問題小委員会」(中山泰秀委員長)が官邸から要請もあって見直し作業に着手した。

 そして三月一日に具体案を作成したが、委員会では硬論と消極論が対立してまとまらず、八日に調査研究を継続するため政府資料の提供を首相に約束させるだけに終った。

 ところが約束したとはいえ、河野談話の根拠となった政府調査団(内閣外政審議室で編成)による十六人の元慰安婦からの聞きとり記録は見せられないというのだから、党側が「二階へ上げてハシゴを外された」と怒るのもむりはない。

 しかし、安倍が首相に就任した直後からのふらつきぐあいを見ていれば、そもそも無理な注文ではあった。

 念のため河野談話に触れた首相と周辺の言行をたどっていくと、安倍はまず昨年十月五日、衆議院予算委員会で民主党の菅代表代行へ「私を含めまして政府として(河野談話を)受け継いでいる……私の内閣で変更するものではない」(国会議事録)と答弁している。

 さらに菅氏から、九七年の答弁で河野談話に疑問を呈しているではないかと突っこまれ、「狭義の強制性はなくても広義の強制性に議論が変わっていった」とも述べているが、わかりにくいせいか後段を伝えなかった新聞も多く、継承するという前段が突出してしまった。

 しかも十月二十七日には下村官房副長官が外務委員会で首相と同主旨を述べたついでに「閣議決定なので……」と言い添え、首相もフォローしたので談話の修正は簡単にはいかないと印象づける。河野談話が閣議決定だというまちがった思いこみ、当の河野洋平氏が現職の衆議院議長に座っているという重みが首相の腰をぐらつかせたのかもしれない。

狭義から広義へ

 米下院の決議案がクローズアップされてきた二月中旬から論議は再燃した。十九日の予算委員会で稲田朋美議員(自民)が「河野談話を撤回する考えはあるか」とただしたのに対し、塩崎官房長官は「政府の基本的な立場は河野談話を受け継いでいる」と答えた(二十日付産経)。

 次に三月一日の記者団会見で首相は、河野発言の継承には触れず、「強制性を裏付ける証拠はなかったのは事実ではないか」「(強制性の)定義が(〈狭義〉から〈広義〉へ)変わったということを前提に考えなければ」などと語っている。

 これに対しニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポストなどアメリカの主要新聞は一斉に二日の紙面で、首相が河野談話を全面否定したと書きたて、さらに国粋主義者、歴史修正主義者と批判した。

 産経新聞でさえ、「(首相は)河野談話が対日キャンペーンの口実に使われていることを憂慮。見直しに着手すべきだとの姿勢を示したものとみられる」と解説したぐらいだから、海外紙が「誤解」してもやむをえず、むしろ首相の「あいまい戦略」によるわかりづらいレトリックが崇ったというべきだろう。

 ともあれ国際的反響の厳しさに動揺したのか、安倍首相は五日の参議院における質疑で、あらためて「河野談話は基本的に継承していく」と述べた。しかし強制性を狭義と広義に分け、わかりやすくするつもりか、前者は「官憲が家に押し入って連れていく」場合、後者は「間に入った業者が事実上強制したこともあった」事例と説明したのが裏目に出た。

 私も発言の真意を測りかね、誤解か曲解の玉突き現象が起きはしないかと危倶していたら、やはり次のような論評が出た。

 毎日新聞
「(首相は)従軍慰安婦の強制性について狭義と広義の意味がある」と定義を使い分けることで、過去の発言との整合性を取る戦術を取ってきた。微妙なニュアンスは海外まで伝わらず、歯切れの悪さが「旧日本軍の関与を否定するもの」と受け取られている(三月六日付)。
 R・サミュエルズMIT教授
 それにしても、今回の安倍の対応はアメリカ人には不可解に映る。河野談話が誤った歴史認識に基づいているというのなら、なぜ公式に撤回しないのか……強制に「広義」と「狭義」があるという日本政府の言い分は、理解せよというほうが無理である(『ニューズウイーク日本版』〇七年三月二十一日号)。
広義の強制に転向

 どうせ叩かれるのなら難解な二分法を使わず、単純明快に「官憲による強制連行はなかった」だけで押し通すほうが、メディア戦略としてはベターだったろう。しかも皮肉なことに安倍流の二分法は、マイク・ホンダが「勇気づけられる政治家」、朝日社説が「潔い態度」と称讃する河野洋平氏、一九九一年の「ピッグバン」で立役者となった吉見義明教授のレトリックと見分けがつかぬ姿となってしまった。その理由を少し説明しよう。

 朝日新聞によれば河野は、一九九七年のインタビューで、政府による強制連行を証明する資料は見つからなかったが、「本人の意思に反して集められたことを(広義の)強制性と定義すれば……数多くあったことは明らか」(九七年三月三十一日付)と語っている。河野自身がすでに河野談話の修正をすませていると見てもよい。

 強制連行説から出発した吉見氏も九〇年代半ばから慰安所生活に自由がなかったとする広義の強制論者へ転向した。

 考えて見れば、「広義の強制」論議ほど不毛なものはない。兵営に閉じこめられ、銃弾の中を突撃させられる兵士、前借金をもらい一方的にトレード(人身売買?)されるプロ野球選手、沖縄戦で動員された「ひめゆり」部隊、さらには公娼制のもと親に売られ内地や朝鮮の遊郭と呼ばれる「苦界」に身を沈めた女性と、どこで線引きするのか。

 そこで、これ以上の混線を招かないため河野談話のどこをどう直せばよいのかという実用的な視点から、「狭義の強制」に関わる部分に限定した私案を次に提示してみよう。他の部分も関連しての手直しが必要だが、省略する。

 慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も甘言、強圧など、官憲等が直接これに加担したこともあった。

 右のうち(1)を削除、(2)を威迫、(3)を「直接間接に関与」か「取り締る努力を怠った」と修正したい。(1)を削除するのは、軍と業者は一方向ではなく、商取引の基本に則し、「魚心に水心」の関係としてとらえたいからである。

 たとえば37頁の新聞広告を眺めてみよう。募集人が民間人、行き先が軍の慰安所であることに疑問はないが、軍の「要請」かどうかは不明である。話がついていたにせよ、軍が前借金まで負担したとは考えられぬから、業者の売りこみから始まったのかもしれないし……と詮索しても無意味だろう。

 私が意外に思ったのは、この種の募集広告が『ワシントン・ポスト』に比肩する『京城日報』という朝鮮最大の新聞に堂々と掲載されていたことだ。広告主は座して待っていれば、京城帝国大学卒業生の初任給の三倍にもなる高給に惹かれた女性たちが続々と応募してきたはずで、リスクの多い「強制連行」に頼る必要がなかった証左にもなる。

(2)はたとえば前借金を親に払った業者が、嫌がる娘に脅し文句を使った事態だとすれば、「威迫」と表現するのが適切と考えたからである。

(3)は最大の争点に関わるが、十数年にわたり関係者が血まなこで探しても証拠らしきものが見つからぬ以上、直接加担はなかったと断定してよいだろう。しかし全面削除では反発が大きすぎるのを配慮して、取締り不足の責任を残すことにした。オレオレ詐欺や金属泥棒の横行に、警察の責任を問うのと同列と考えてよい。

買春ではなく連続レイプ

 だが火の手が燃えさかるピーク時には消火剤も放射水も効用がないように、目下の第二次慰安婦騒動にはどんな手を打っても無駄な気がする。思えば十数年前の第一次騒動時も、支援者や運動体に煽られて、マスコミも熱に浮かされた狂態ぶりで、異論に耳を傾けてくれる人は稀だった。

 カトリックの日本人枢機卿が国会前に坐りこみ集団断食で抗議しようと呼びかけたり、二百万円の見舞金を「韓国では犬の値段だ」とわめく元慰安婦が登場した情景が思い出される。

 そうした異様な熱気のさなかで、河野官房長官が周防正行監督なみに「それでも日本はやってない」と言い張る勇気を持てなかったのは、わからぬでもない。

 では今回はどうか。熱源になったアメリカなどの先進諸国に比べ、中韓両国の興奮度は意外に低い。たとえば中国の各紙は三月十一日に「安倍首相が慰安婦に対しおわび」したと論評抜きで報じた程度だが、昨年の対日論調を覚えている人は、かえって気味悪がるかもしれない。

 韓国については、ソウル駐在の黒田勝弘特派員が三月十四日の産経紙上で「日本軍の慰安婦犯罪はアジアを超えて世界的な公憤の対象になった」とか「対日圧力の世界化ネットワークを」といった新聞論調を紹介、「日本人拉致問題をめぐる日本における北朝鮮たたきに対する報復心理が微妙にうかがわれる」との外交筋の見方を伝えている。

 つまり背後には蕫北朝鮮の影がある?というのだが、既出のように朝日新聞が同調する気配を見せているから、逆流する形でわが国の「反日派」が勢いづく事態も予想される。

 とかく千波は万波を呼ぶ。虚実とりまぜた誇大宣伝は相乗効果を生み、とめどなくエスカレートしがちだ。海外メディアで目についたのは「買春ではなく連続レイプだった」(ニューヨーク・タイムズ)、「安倍首相は耳が聞こえないのか」(英エコノミスト誌)、「天皇が謝るべきだ」(ロサンゼルス・タイムズ)、「ホロコーストなみの大罪」(マーク・ピーティ教授)といったところだが、便乗する形でレイプ犯罪の告白まで登場してきた。

それでもボクはやってない

 三月十六日と十七日の各新聞は、政府が河野官房長官談話を継承するが、あらためて閣議決定にはせず、同談話の「発表までに政府が発見した資料の中には『軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった』とする答弁書を閣議決定した」(十六日付朝日夕刊)と報じた。

 現段階における最終的な日本政府の対処方針と見なせるが、あい変らずまわりくどい言い回しなので、慰安婦問題の最終的な解決に結びつくかどうか疑わしい。問題の下院決議は不可避と覚悟したうえで、せめて安倍訪米後まで延ばして欲しいとの思いなのかも知れない。

 それはそれとして、早急に必要なのは誤認ないし誤解されている基本的事実について、説得性に富むデータ(とりあえずは英文)を発信することだろう。

 海外では令名のある歴史家や法律家でも、慰安婦問題に対する事実認識はおどろくほど低い。ダイナ・シェルトン教授(ジョージ・ワシントン大学教授)を例にとると、「大多数(most)の歴史家は、徴用(conscript)された女性は十―二十万と算定している」「彼女たちの大多数は朝鮮人と中国人」「多くが誘拐(kidnap)され、レイプされた。次はだまされた者で、親に売られた者もいる」(ロサンゼルス・タイムズから三月十一日のジャパンタイムズヘ転載)のような認識である。

 まちがいだらけなので私なりに訂正すると、「慰安婦の総数は二万人以下で強制的に徴用した例はない」「最多は日本人女性」「多くは親が業者に売ったか、業者の募集に応じた者で、だまされた者もいる」となる。ついでに慰安所の生活条件は、平均してベトナム戦争時の米軍慰安所とほぼ同じと付け加えたい。

 そして内外の運動家たちには、中国だけで半年間に救出した誘拐や人身売買(多くは強制売春)の被害者は十一万人以上とチャイナ・デイリー紙(二〇〇〇年九月十七日付読売)が伝える現在の性犯罪根絶へ向け、奮闘してもらいたいと願う。

注1 六月二十六日下院外交委員会は39・2で決議案を採決した。共同提案議員は百四十六人に達した。

2 七月中旬に大陸の全体決議採決が予定されている。

https://web.archive.org/web/20160315114951/http://www.ianfu.net/opinion/hata-ikuhiko.html

http://megalodon.jp/2016-0530-1419-43/www.ianfu.net/opinion/hata-ikuhiko.html

演劇 東京演劇アンサンブル「荷(チム)」 —

演劇 東京演劇アンサンブル「荷(チム)」

作・演出:鄭福根=作 坂手洋二=演出
キャスト:チョン・スンギル ウミファ 伊藤克 原口久美子 ほか
スタッフ:石川樹里=訳 音楽=大友良英 美術=加藤ちか 衣裳=緒方規矩子/西原梨恵 照明=竹林功 音響=島猛 振付=矢内原美邦 演出助手=赤澤ムック/志賀澤子 宣伝美術=沢野ひとし レイアウト=奥秋圭 舞台監督=松下重人 制作=太田昭

日時:2012年2月24日~3月4日
場所:ブレヒトの芝居小屋(西武新宿線・武蔵関)
料金:前売り:3800円 当日:4500円

東京の劇団東京演劇アンサンブルが、公演「荷(チム)」を上演いたします。
「ある日、ソウルに住む金潤植のもとに正体不明の荷物が届く。それは日本の青森県むつ市に住む芳子という女性から送られてきたものだった。潤植は、市議会選挙出馬準備中であり、不審な荷物は受け取るべきではないと送り返す。芳子は、その荷物が潤植の物だと主張し、再び送り返す。その荷物が日本と韓国を行きかううちに、次第に荷物の正体が明らかになる。1945年8月22日、強制連行された朝鮮人を乗せて浮島丸が青森県大湊を出港するという。桟橋には多くの朝鮮人が集まってくる。その中に、強制労働させられた昌秀と慰安婦させられた貞和の姿もあった。二人は終戦直後の大湊で出会い、仲間たちとともに、一緒に帰ることを誓う。しかし、その浮島丸には、爆破されるかもしれないという噂がまことしやかに流されていた。8月24日、釜山港へ向かうはずの浮島丸は突如進路を変える。そして、京都の舞鶴港沖にて、爆沈する。芳子の祖父である斉藤は、自分の家に間借りしていた貞和に恋心を抱いていた。そして舞鶴での浮島丸爆沈の話を聞き、大湊から貞和を探しに行く。おびただしい数の死体が浮かび上がるなか、生き残った貞和を見つけ出す。彼女が抱えていたのは、昌秀が大切にしていた荷物だった。芳子は、この荷物は大湊港から浮島丸に乗船した韓国人男性の持ち物で、祖父が保管していたものだと手紙を添える。潤植は、昔、祖父の妹に当たる女性が従軍慰安婦にされていたことを打ち明けるが、男性の荷物とは何の関係もないと再び送り返す。芳子は、親戚の遺品の受け取りを拒む金潤植の行為をマスコミに暴露すると脅迫する。とうとう潤植は芳子の脅迫に応じるかのように、むつ市を訪れる。ところが、潤植と対面した芳子は、自分は荷物など送っていないと言う。潤植がこれまでに受け取った手紙は、すべて芳子の祖父の筆跡だった。」真実がどのような結末につながっているのでしょうか。
「東京演劇アンサンブルの今度の公演では、坂手洋二さんを演出にお迎えして、韓国のベテラン女性劇作家チョン・ボックンさんの書いた『荷』(韓国語でチム)という作品を上演します。”荷”とは、日本と韓国の間にある重い”荷”のことであり、誰もが持っているであろう”荷”のことでもあります。日韓の演劇交流の仕事で出会った双方の演劇人によって、今回の公演が実現しました。作者の鄭福根さんからの重いメッセージを、まだまだ未熟な私たちがどう受け止め、舞台化できるか、新しい挑戦をしています。東京演劇アンサンブルの代表であった広渡常敏の死後、初めて外部からの演出家を招くことができました。坂手さんの演劇への情熱に、多くの心強いスタッフが集まり、俳優たちも自分たちと向き合う日々を送っています。韓国から招いたウ・ミファさんは、昨年の韓国演劇賞の女優賞とソウル演劇祭女優賞を受賞した実力派、坂手さん作の『たたかう女』(キム・スヒ演出)を韓国で上演しています。もう一人のチョン・スンギルさんは、やはり坂手さん作の『だるまさんがころんだ』韓国版(キム・ガンボ演出)に出演しています。坂手さんと過ごす日々に、自分たちの未熟さを思い知らされながら、しかし、信頼できる人たちとともに芝居を作る楽しさを感じています。ブレヒトの芝居小屋も、舞台美術、衣裳、音楽、振付、照明、音響・・・によって、より魅力的に、大胆に空間が演出されています。期待を裏切らない作品です。ぜひ、お見逃しなく!!」とのこと。興味を持った方は、是非劇場に足を運んでみてください。

2012年2月18日演劇交差点
http://megalodon.jp/2012-0219-1935-21/www.engeki.org/2012/02/post_1485.html

安倍vs志位 2006 強制 — 2016年5月28日

安倍vs志位 2006 強制

衆議院

第165回国会 予算委員会 第3号(平成18年10月6日(金曜日)

○志位委員 私は、日本共産党を代表して、安倍首相に質問いたします。

過去の日本が行った侵略戦争と植民地支配にどういう態度をとるかは、二十一世紀に日本がアジアと本当の友好を築く上で避けて通れない重大問題であります。また、戦後世界の国際秩序は、日独伊が行った戦争を誤った侵略戦争として認定し、こうした戦争を二度と繰り返してはならないという土台の上に成り立っており、この土台を否定することは、日本が二十一世紀に世界とアジアの一員として生きていく資格にかかわる問題でもあります。

私は、本会議の代表質問で、首相の歴史認識の問題をこういう角度から重視し、幾つかの問題をただしましたが、首相は、どの問題に対してもみずからの言葉で語ろうとはしませんでした。そこで、本会議に引き続き、この問題をただしたいと思います。

私は、本会議質問で、靖国神社が立っている歴史観、日清、日露の戦争から中国侵略戦争、太平洋戦争までの日本が過去に行った戦争すべて、アジアの解放、自存自衛の正しい戦争だったとするいわゆる靖国史観について、首相がこれを是とするのか非とするのかについてただしました。しかし、首相からは、その是非についての御答弁がありませんでした。この場ではっきりとお答えください。

〔委員長退席、杉浦委員長代理着席〕

○安倍内閣総理大臣 私も従来から申し上げておりますように、歴史認識については、政治家が語るということは、それはある意味、政治的、外交的な意味を生じるということになるわけでありまして、そういうことを語ることについてはそもそも謙虚でなければならない、このように思っています。

靖国史観というのは、靖国史観がいわゆるどういうものであるかということについては承知をしておりませんが、それは、宗教法人である靖国神社の考え方を披瀝したものであるかもしれない。私が政府としてそれをコメントするのは適当ではない、このように思います。

○志位委員 私は、安倍さんは国政の責任者になられたわけですから、歴史観を語らないのは、謙虚ではなくて無責任だ、このように思います。

同時に、そういう答弁を繰り返すのならば、聞かなければならないことがあります。それは、首相自身が過去に、政治家として特定の歴史観、戦争観についてそれこそ大いに語り、その立場で行動してきたということを今日どう考えているかという問題です。

ここに、一九九四年の十二月一日に結成された終戦五十周年国会議員連盟の結成趣意書がございます。次の一枚はこの国会議員連盟の名簿でありますが、その中には安倍晋三さんの名前も記載され、事務局長の代理を務められていると述べられておりますが、まず、事実関係について確認したいと思います。間違いありませんね。

○安倍内閣総理大臣 随分昔のことでありますし、事務局長代理というものはそれほど偉いポストでもないわけでありますが、もしそこにそういう書類があるのであれば、それは事実なんだろうと思います。

○志位委員 事務局長代理というのは、四役のうちの一人ですから、重要な役職ですよ。

そして、この結成趣意書を読みますと、公正な歴史への認識を明らかにすることは国政にあずかる者の責務だというふうに述べて、過去の日本の戦争について、日本の自存自衛とアジアの平和のための戦争だったという歴史観、戦争観がはっきりこの結成趣意書には述べられています。

首相は、先ほどの答弁で、歴史観を政治家が語ることは謙虚であるべきだ、つまり語らないことが謙虚なんだということをおっしゃられたけれども、あなたも賛同したはずのこの結成趣意書には全く違うことが述べられているじゃありませんか。これはどう説明するんですか。

○安倍内閣総理大臣 いわば、語る、語らないというよりも、歴史観を、これはこういう歴史観でなければならないとか、あるいは、これはこうなんだということを特定することはできないということではないか、このように思うわけでありまして、いずれにいたしましても、今、私は政府の立場にある者として、こうした歴史についての認識、考えを語るということについては謙虚でなければならないというのが現在の私の考え方であります。

○志位委員 謙虚だと言われることと全く違うことをされていた、あなたの言葉で言えば、謙虚だということと全然正反対の行動をされていたということについての説明はありませんでした。

特定の歴史観を語ったものじゃないというふうにおっしゃいますけれども、日本の自存自衛とアジアの平和、これは、当時のあの侵略戦争を進めた戦争指導者が使った言葉です。特定の歴史観そのものです。

それでは、この議員連盟が何をやってきたのか。この終戦五十周年議員連盟は、終戦五十周年に当たっての国会決議に対して、まさに日本の戦争は正しかったとする立場から、さまざまな行動をしております。

これが一九九五年四月十三日付の議員連盟の運動方針でありますが、ここにはこう述べられております。「本連盟の結成の趣旨から謝罪、不戦の決議は容認できない。また反省の名において、一方的にわが国の責任を断定することは認められない。」さらに、「終戦五十年に当り戦後、占領政策ならびに左翼勢力によって歪められた自虐的な歴史認識を見直し、公正な史実に立って、自らの歴史を取り戻し、日本人の名誉と誇りを回復する契機とすることが切望される。」これが運動方針です。

それから、声明があります。六月八日付です。これは、与党三党、当時の自民党、社会党、さきがけがまとめた国会決議案について、次のように声明では述べています。「与党三党の幹事長、書記長会談において合意に達した決議案は、わが国の「侵略的行為」「植民地支配」を認め、わが国の歴史観を歪めており、われわれは決して賛成できない。」

この国会決議というのは、米英も日本も両方に問題があった、いわばどっちもどっち論の立場でありまして、そういう弱点を持っていましたから私たちは反対いたしました。しかし、そういう弱点を持つ決議案でも、終戦五十周年議員連盟の立場からは、すなわち安倍さんの立場からは認められないというものでした。

この運動方針を見ましても、声明を見ましても、戦争への謝罪や反省をすること、そして、侵略的行為、植民地支配を認めることは歴史観をゆがめるものだ、断固として拒否するとはっきり書いてあります。こういう立場から、議員連盟の多くの議員が本会議を欠席しました。安倍さんも本会議には欠席されています。

首相が、この当時こういう考え方を持ち、それに基づいて行動してきた、これはお認めになりますね。事実の問題です。

○安倍内閣総理大臣 恐らくその議員連盟は、その決議のときに発足をして、決議が終わった後は活動していない、私もそれほどよく覚えていないわけでございますが。あのときの議論においては、恐らく、こうしたことを国会で決議するのはおかしいのではないかというのが大体議論の中心ではなかったか、このように思います。

今、私の内閣総理大臣としての考え方は、累次この委員会でも、また本会議でも述べてきているとおりでございます。

○志位委員 私の設問に答えておりません。

この国会議員連盟の運動方針や声明では、侵略的行為や植民地支配を認めることは歴史観をゆがめる、自虐史観だと述べているわけですね。当時、あなたはこういう認識だったかどうかを聞いているんです。お答えください。

○安倍内閣総理大臣 当時も、私は、さきの大戦において多くのつめ跡をアジアの地域に残した、このように考えていたわけでございます。そして、日本人を塗炭の苦しみの中に落とした、こういう認識を持っていたわけでございます。しかし、その中で、いわゆる侵略戦争ということについては、これは国際的な定義として確立されていないという疑問を持っていたような気がするわけでございます。

○志位委員 侵略戦争についての定義の問題をあなた方は問題にしていたんじゃないんですよ。侵略的行為、植民地支配自体の事実を書き込むことをやめろと言って行動されてきたんですよ。

首相は、首相になってからの答弁では、歴史観を語らない方が謙虚なんだ、政治家は歴史観を余り語るべきじゃないんだということをおっしゃるけれども、首相になるまでは、さんざん、それこそ、植民地支配、侵略的な行為、それを言うこと自身が自虐史観であり、歴史観をゆがめる、そういう立場で行動してきたじゃないか。これは説明がつかない矛盾じゃありませんか。どう説明するんですか、それを。

○安倍内閣総理大臣 今急に、随分昔の議員連盟で出した文書を出されても、私も何とも答えようがないわけでありますが、現在の私の総理大臣としての考え方、立場については、もう既に累次申し上げてきているとおりでございます。それをそのまま受け取っていただきたいと思います。

〔杉浦委員長代理退席、委員長着席〕

○志位委員 随分昔にとおっしゃいますけれども、十年前のことですよ。そして、そのときに国会決議に対して欠席したという事実も残っております。

私は、この問題で、まず首相がお答えできないのは、あなたが、そもそも、たって、ずっと主張してきた歴史観、戦争観というのは、首相になったらもう口にすることができないような性格のものだということを物語っていると思います。

そこで、次に、一九九五年の村山談話についての首相の立場をただしたいと思います。

村山談話は、我が国は、遠くない一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えましたとして、痛切な反省と心からのおわびを述べています。

私は、本会議でも首相に、村山談話を継承し、首相自身の歴史認識に据えるのかどうか、特に、村山談話で明記されている、国策を誤って戦争への道を歩んだという認識を共有するのかどうかとただしました。しかし、首相は、政府の認識は村山談話などにおいて示されているとおりと言うだけで、国策の誤りについては答弁されませんでした。

私は、あの村山談話の重要な点は、植民地支配と侵略が国策の誤りとして行われたことを公式に認定したところにあると思います。

首相にもう一度この問題を問いたい。

首相自身が国策の誤りという認識を持っているのかどうかについて、御自身の言葉ではっきりとお答えください。

○安倍内閣総理大臣 これは、私が今まで累次申し上げておりますように、さきの大戦をめぐる政府としての認識は、御指摘の記述を含めまして、平成七年八月十五日及び平成十七年八月十五日の内閣総理大臣談話において示されてきているとおりであります。

御指摘の談話については、戦後五十年という節目に閣議決定されたものでありまして、内閣総理大臣として、また私の政府として引き継がれているということでございます。

○志位委員 政府の認識だけではなくて、安倍さん個人の認識を伺ったわけです。

それで、政府の認識は二つの談話に示されたとおりだ、御指摘の記述も含めてと言われました。そういう持って回った言い方ではなく、あなた自身の言葉で、自分は国策を誤ったと認識していると、もし認識しているんだったら、そういう言葉ではっきりおっしゃっていただきたい。いかがでしょうか。

○安倍内閣総理大臣 私は、総理として今この場に立っているわけでございますので、総理として答えるわけでありますが、今委員がおっしゃった、国策を誤り、戦争への道を歩んだ、このように指摘をされたわけでありますが、今指摘された記述を含めて、平成七年八月十五日及び平成十七年八月十五日の内閣総理大臣談話において示された考え方を政府としては引き継いでいるということでございます。

○志位委員 あなた自身の認識も国策を誤ったということですね。

○安倍内閣総理大臣 何回も申し上げておりますように、私は内閣総理大臣として申し上げておるわけであります。

○志位委員 それでは、その国策の誤りの具体的中身について、過去の戦争に際して日本がどのような国策をもって臨んだのかについて具体的にただしていきたいと思います。

歴史の事実に照らしてみますと、日清、日露の戦争、中国侵略戦争、太平洋戦争のすべてが、自国の領土の拡張と他国の支配を目指すことを国策とした戦争だったことは否定しようのない事実だと思います。

ここに、日本の外務省が一九五五年に編さんした外交文書集「日本外交年表並主要文書」という文献があります。これを、私、ずっと読みましたが、これを見ましても、そのことを裏づける日本政府自身の無数の決定があります。

私は、そこにおさめられているものの中から、中国侵略戦争から太平洋戦争に至る時期の三つの重要な決定について首相に具体的にただしたいと思います。委員の皆さんも、それから首相も配付資料をごらんください。昨日、質問通告した資料です。

一つ目の資料は、日本が中国への全面的な侵略戦争を開始した翌年の一九三八年一月十一日に決定された「「支那事変」処理根本方針」なる文書であります。これは、御前会議、すなわち天皇の出席のもとに、政府と軍の首脳部が集まる日本国家の最高の戦争指導機関の最初の決定です。まさしく、戦争遂行に当たっての国策を述べたものであります。

この決定をごらんいただきたいんですが、これを見ますと、日支講和交渉条件として中国政府への要求がずらりと並んでいます。

その要求の中核に据えられているのが、北支及び内蒙に非武装地帯を設定すること、中支占拠地域に非武装地帯を設定すること、北支、内蒙及び中支の一定の地域に日本軍の駐屯をなすこと、これが要求の中核なんですよ。すなわち、北支、北京を中心とする華北地方、それから内蒙、内モンゴル地方、中支占拠地域、これは上海を中心とする揚子江下流三角地帯などに非武装地帯を設ける。非武装地帯というのは中国軍は立ち入ることができない。そして、ここに明記されているように、日本軍が駐屯できる地域をつくるという要求がはっきり書かれております。

そして、この要求を中国政府が受け入れない場合には、帝国はこれが壊滅を図ると書いてあります。すなわち、中国政府を軍事力で壊滅させると述べております。これが最初の御前会議の決定なんですよ。

この決定は、日中全面戦争が、中国領土に日本軍の駐兵権を認めさせ、中国を支配下に置くことを目的とした戦争だったことをはっきり示していると思います。

首相は、日本が日中全面戦争に際してこうした国策を決定したことを、まず、事実としてお認めになりますか、事実の問題として。

○安倍内閣総理大臣 事実として認めるかどうかということでありますが、その文書が存在するということについては、その文書が存在するという事実があるということではないかと思います。

○志位委員 文書の存在は当然なんですが、つまり、日中戦争が、日本軍の駐兵権と中国に対する支配権を目的にした、それを獲得することを目的にした戦争だったと最初の御前会議で決定している、そういう戦争目的を持っていたという事実を認めるかと聞いているんです。

○安倍内閣総理大臣 そうした歴史の出来事一つ一つの分析については、それを分析することは政府の役割ではない、私はこのように考えています。まさにそれこそ、歴史家が資料を集め、証言を集めながら分析していくことではないか、このように考えております。

○志位委員 また歴史家に逃げ込むわけですけれども、この文書はどこかの歴史家がつくった文書じゃないんです。日本政府が御前会議という最高の戦争決定機関でつくった文書なんですね。ですから、それに対して日本の最高責任者である総理がきちんとした見解を持つことは、これは当然なことだと言わなければなりません。

二つ目の文書を見ていただきたいと思います。文書の三ページです。

これは、太平洋戦争に乗り出す一年前の一九四〇年九月十六日、大本営政府連絡会議、すなわち軍と政府の共同の戦争指導機関が決めた「日独伊枢軸強化に関する件」と題する決定文書です。これは、この同じ年の九月二十七日の日独伊三国軍事同盟締結を前にして、皇国の大東亜秩序建設のための生存圏の定義について決めております。この決定では、日本の生存圏、領土拡張と支配圏の範囲として次のように述べています。

資料の五ページの下の段をごらんください。それをパネルにすると、こういうことになります。

独伊との交渉において皇国の大東亜新秩序建設のための生存圏として考慮すべき範囲は、日満支を根幹とし、旧ドイツ領委任統治諸島、フランス領インド及び同太平洋島嶼、タイ国、イギリス領マレー、イギリス領ボルネオ、オランダ領東インド、ビルマ、オーストラリア、ニュージーランド並びにインド等とす。日本の生存圏、この広大な範囲ですよ、これを大本営政府連絡会議で決めているわけですね。太平洋戦争の始まる前の年です。

太平洋戦争の性格について、こうなりますと、領土の拡大と他国の支配を目的とした戦争であったということは、これは紛れもない事実だということをこの資料は示していると思いますが、総理の見解を伺いたい。太平洋戦争の基本的な目的です。

○安倍内閣総理大臣 当時のいろいろな決定、出来事については、例えば、当時の日本をめぐる状況や国際社会の状況もあるでしょうし、どういう時代であったかという分析も必要でしょうし、歴史は連続性の中で見ていくことも大切ではないか。

ですから、そういう事象について、今ここで、私は、政府としてそれがどうだったかということを判断する立場にはないということでございます。つまり、一定の、政府としてこういう考え方に立って歴史を判断するということは私はしないということでございます。

共産党としては、例えばマルクス史観に立ってすべてを決めていくということかもしれませんが、こういう事柄については、先ほど来申し上げておりますように、まさに歴史的な分析を歴史家がするべきではないかと思います。

○志位委員 太平洋戦争の目的について、これも歴史家の分析に任せるべきだ、マルクス史観ではそうだというふうにおっしゃいましたけれども、これは私どもの特殊な立場ではありませんよ。日本の戦争が侵略戦争だったというのが、戦後の国際秩序、国連憲章でも、あるいはポツダム宣言でも、すべての世界の秩序の土台になっている問題であります。そして、私がさっき示した表が、まさに生存圏をとるために起こした戦争が太平洋戦争だったということは、実際の戦争の経過がそういうふうに進んだことが証明していると私は思います。

三つ目の文献を見ていただきたい。これが一番決定的な、日本政府のまさに本音がむき出しになった文献です。資料の八ページをごらんください。

一九四三年五月三十一日の御前会議の「大東亜政略指導大綱」と題する決定です。これは、太平洋戦争に乗り出した日本が、東南アジアの地域ごとにどういう政治体制にするかを決めたものです。

資料の九ページの上の段をごらんください。そこにはこのように明記しています。

マライ、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスは帝国領土と決定し、重要資源の供給地として極力これが開発並びに民心把握に努む。これは御前会議の決定ですよ。「重要資源の供給地」とありますが、これらの地域というのは、石油、ゴム、すずなどの重要資源の産地としてもともと日本がねらっていたところでしたが、資源を我が物にするために「帝国領土」と決定しているんですよ、御前会議で。これは動かせない事実です。

私は、この決定というのは、太平洋戦争というのが日本の領土の拡大を目的にした戦争だったということを疑問の余地なく示していると思います。首相はこれをお認めになりますね。

○安倍内閣総理大臣 さきの大戦の結果を踏まえまして、我が国は、こうした結果に対して全国民で責任をとるという立場に立って、その後、まだまだ貧しい中にあったわけでありますが、各国と、賠償を払いながら講和条約を結んでいった。この中において我々は国際社会に復帰をしたわけでございます。

そして、今委員が挙げられた、こうしたこと一々について政府としてはコメントする立場にはないということは、申し上げてきたとおりであります。

○志位委員 私は、あなたが国策の誤りということも含めて村山談話をお認めになるということをおっしゃったので、その国策の誤りの具体的な中身を三点示しました。すべて、政府の正式な決定、国策として決めたことです。これは、日本の過去の戦争が領土の拡大と他国の支配を目的にしたことを疑問の余地なく明らかにしています。私は、この戦争の誤りの核心部分はここにあると思います。こういう戦争のことを侵略戦争というんですよ。そして、そこに国策の誤りの核心があるんです。

ところが、どの問題についても、具体論になれば、総理は、歴史家に任せると言って、領土拡大と他国支配を目的にしたという事実すらお認めにならない。これでは、本当に日本の過去の戦争を反省したことにはならないということを私は指摘しなければなりません。

いま一つ私が聞きたいのは、従軍慰安婦問題です。

一九九三年に、日本政府は、河野官房長官談話で、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については旧日本軍が直接、間接に関与したこと、慰安所における生活は、強制的な状況のもとでの痛ましいものであったことを公式に認め、心からのおわびと反省を述べるとともに、歴史教育などを通じて、同じ過ちを決して繰り返さない決意を表明しています。

私が本会議質問でこの問題をただしたのに対して、首相は、いわゆる従軍慰安婦問題についての政府の基本的立場は河野官房長官談話を受け継いでいると答弁されました。しかし、河野談話を受け継ぐと言うのなら、首相の過去の行動について、どうしても私はただしておきたい問題があります。

ここに、一九九七年五月二十七日の本院決算委員会第二分科会での議事録がございます。安倍議員の発言が載っております。「ことし、中学の教科書、七社の教科書すべてにいわゆる従軍慰安婦の記述が載るわけであります。」「この従軍慰安婦の記述については余りにも大きな問題をはらんでいるのではないか」「いわゆる従軍慰安婦というもの、この強制という側面がなければ特記する必要はないわけでありますが、この強制性については全くそれを検証する文書が出てきていない」、こう述べられております。そして、結局、これは、教科書から従軍慰安婦の記述を削除せよという要求です。さらに、教科書にこうした記述が載るような根拠になったのは河野官房長官の談話だとして、談話の根拠が崩れている、談話の前提は崩れていると河野談話を攻撃しています。

河野談話を受け継ぐと言うのだったら、私は、首相がかつてみずからこうやって河野談話を攻撃してきた、この言動の誤りははっきりお認めになった方がいい、このように考えますが、いかがでしょうか。

○安倍内閣総理大臣 この河野談話の骨子としては、慰安所の設置や慰安婦の募集に国の関与があったということと、慰安婦に対し政府がおわびと反省の気持ちを表明、そして三番目に、どのようにおわびと反省の気持ちを表するか今後検討する、こういうことでございます。

当時、私が質問をいたしましたのは、中学生の教科書に、まず、いわゆる従軍慰安婦という記述を載せるべきかどうか。これは、例えば子供の発達状況をまず見なければならないのではないだろうか、そしてまた、この事実について、いわゆる強制性、狭義の意味での強制性があったかなかったかということは重要ではないかということの事実の確認について、議論があるのであれば、それは教科書に載せるということについては考えるべきではないかということを申し上げたわけであります。これは、今に至っても、この狭義の強制性については事実を裏づけるものは出てきていなかったのではないか。

また、私が議論をいたしましたときには、吉田清治という人だったでしょうか、いわゆる慰安婦狩りをしたという人物がいて、この人がいろいろなところに話を書いていたのでありますが、この人は実は全く関係ない人物だったということが後日わかったということもあったわけでありまして、そういう点等を私は指摘したのでございます。

○志位委員 今、狭義の強制性については今でも根拠がないということをおっしゃいましたね。あなたが言う狭義の強制性というのは、いわゆる連行における強制の問題を指していると思います。しかし、河野談話では、「本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、」とあるんですよ。政府が自分の調査によってはっきり認めているんです、あなたの言う狭義の強制性も含めて。これを否定するんですか。本人たちの意思に反して集められたというのは強制そのものじゃありませんか。これを否定するんですか、河野談話のこの一節を。

○安倍内閣総理大臣 ですから、いわゆる狭義の強制性と広義の強制性があるであろう。つまり、家に乗り込んでいって強引に連れていったのか、また、そうではなくて、これは自分としては行きたくないけれどもそういう環境の中にあった、結果としてそういうことになったことについての関連があったということがいわば広義の強制性ではないか、こう考えております。

○志位委員 今になって狭義、広義と言われておりますけれども、この議事録には狭義も広義も一切区別なく、あなたは強制性一般を否定しているんですよ。そして、河野談話の根拠が崩れている、前提が崩れている、だから改めろ、こう言っているわけですよ。

ですから、これも、河野談話を認めると言うんだったら、あなたのこの行いについて反省が必要だと言っているんです。いかがですか。広義も狭義も書いてないです、そんなこと。あなたが今になって言い出したことです。

○安倍内閣総理大臣 当時私が申し上げましたのは、いわば教科書に載せることが、中学生の教科書に載せることが適切かどうかということを申し上げたわけであります。

そして、私が累次申し上げておりますように、私は、今内閣総理大臣の立場としてこの河野談話を継承している、このように思います。

○志位委員 今の総理の答弁は全く不誠実です。中学生の教科書に載せることだけを問題にしたんじゃない。強制性がないと言ったんですよ。これだけ反省すべきだと言ったのに、あなたは答えない。

強制性の問題については、先ほど言ったように、その核心は慰安所における生活にある。慰安所における生活が、強制的な状況のもとで、痛ましいものであった、これは河野談話で認定しています。これを裏づける材料は、旧日本軍の文献の中にたくさんあります。

以前、橋本元首相あてに、ある韓国人の被害者のハルモニ、おばあさんから次のような手紙が送られたことがあります。読み上げたい。

私はキム・ハクスンと申します。一九九一年八月十四日に初めて証言し、日本政府が隠し通してきた慰安婦問題の歴史的な扉をあけてから、もう五年もたちました。誇らしいことなど一つもない私自身の過去を明らかにし、名乗りましたのは、幾らかのお金をもらうためではありません。私が望むのは、日本政府の謝罪と国家的な賠償です。三十六年間の間植民地とされた苦痛に加えて、慰安婦生活の苦悩を一体どのように晴らしたらいいとおっしゃるのでしょう。胸が痛くてたまりません。韓国人を無視しないでください。韓国のハルモニ、ハラボジに当時の行いの許しを請うべきではないでしょうか。

首相に、私、伺いたいんです。

あなたは、政府の基本的立場は河野官房長官談話を受け継ぐとはっきりおっしゃったんですよ。ならば、あなたは、これまで河野談話を根拠が崩れていると攻撃して、歴史教科書から従軍慰安婦の記述を削除するように要求してきたみずからの行動を反省すべきではないか。そして、この非人間的な犯罪行為によって犠牲となったアジアの方々、とりわけ直接被害に遭われた方々に対して謝罪されるべきではないかと私は思います。もう一度答弁をお願いします。

○安倍内閣総理大臣 ですから、私が先ほど来申し上げておりますように、河野官房長官談話の骨子としては、いろいろな苦しみの中にあった慰安婦の方々に対しておわびと反省の気持ちを表明しているわけでありまして、私の内閣でもそれは継承しているということでございます。

○志位委員 河野談話を継承すると言いながら、みずからの誤りについての反省を言わない。これでは、心では継承しないということになりますよ。

私は、先月、韓国を初めて訪問する機会を得ました。国会議長や与野党リーダーと会談で党派を超えて共通して感じたのは、日本帝国主義による三十六年間に及ぶ植民地支配への痛みの深さでした。

私は、ソウル市内の西大門と呼ばれる刑務所の跡の歴史館を訪問しました。この刑務所は、日本によって一九〇八年につくられ、植民地支配に反対して立ち上がった朝鮮の愛国者を残虐きわまりない弾圧、拷問、処刑によって迫害した場所であって、館長さんの説明によりますと、一九四五年までの間に約四万人が投獄され、四百人から四千人が亡くなったということでした。そのおびただしい犠牲に、慄然とする思いでした。

日本共産党は、戦前の時代から日本帝国主義による朝鮮への植民地支配に反対し、朝鮮独立の闘いに連帯して闘った歴史を持つ政党であります。私は、そういう党を代表して、この刑務所で犠牲となった朝鮮の愛国者の皆さんに、敬意を込めて追悼の献花を行いました。

同時に、私が韓国の皆さんと交流して共通して感じたのは、二十一世紀の未来に向けて日本との本当の友好を願っているということです。そのためにも、日本政府が歴史を歪曲するような行動をやめてほしいという強い思いです。私は、たとえそれが目を背けたくなるようなものであったとしても、過去に誠実に向き合い、過去の誤りを真摯に認めてこそ、日本は本当にアジアの友人を得ることができるというのが実感であります。

安倍首相も中国、韓国と歴訪されると伺いました。私、ぜひ言いたいことがあります。

政治家としての謙虚さというのは、日本が国家として犯した誤りに口をぬぐうことではありません。アジアと日本国民に甚大な犠牲を与えた侵略戦争と植民地支配という歴史の真実に向き合うことです。特に、相手の国に与えた痛みの深さに理解をすることが大切だ。ぜひあなたにそういう立場に立ってほしいということを強く述べておきたいと思います。

最後に、私、国民の暮らしの問題で緊急にただしたい、どうしてもこれだけは聞いておきたい重大問題があります。高齢者への急激な負担増の問題です。

http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/001816520061006003.htm

 

[eng] フランス軍・公娼・慰安所 — 2016年5月27日

[eng] フランス軍・公娼・慰安所

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Christelle Taraud, La prostitution coloniale. Algérie, Maroc, Tunisie (1830-1962)

http://megalodon.jp/2016-0527-1742-16/clio.revues.org/10128

[下訳]
The reissue in 2009 by Payot editions of the book Christelle Tap an opportunity to remember one of the most original studies over the past decade on gender in colonial situation. This very detailed investigation into the history of the organization of prostitution in the Maghreb under French colonial rule, from 1830 until the early 1960s, based on the systematic analysis of the French civil and military archives of the overseas (Aix-en-Provence, Nantes, Paris, Vincennes), the analysis of an impressive amount of iconographic collections (postcards, photographs, film) and published sources (press, travel stories, literature) . In this study, Christelle Tap poses a central question: what the French administration she organized an unprecedented prostitution system in this region that participated fully in the colonial system, and as such was out with the organization social and political of the metropolis?
2There is significant that the regulation of morals has faithfully accompanied the colonial order. In Algiers, in 1831, prostitutes are recorded by the police – in 1889 in Tunis, from 1914 in Casablanca (p. 57). In Algiers, 11 August 1830 opening an establishment for the medical monitoring of public women (p. 245). Finally, according to Christelle Tap, the first military brothels campaign (BMC) were held by the army, probably in 1831, from the beginning of the Algerian conquest (p. 341). The characteristics of prostitution in colonial situation identified early in the process were out with sociology and prostitution practices practiced in pre-colonial societies of North Africa, domestic slavery and the world of courtesans. The colonial prostitution is defined by an administrative regulation, the individual and health control, and also by the slaughtering work of indigenous prostitutes – a kind of “sexual Taylorism” by Christelle Tap – originally organized by the army to control impulses the troupe. The regulation and control of prostitutes were intended to protect the white society and metropolitan epidemiological risks. Therefore, unlike the metropolis, the administration organized a discriminatory system registered in colonial society: the European prostitution was supposed to be confined in brothels, while the natives were required to prostitute themselves in the streets and ‘quarters. here there is a further feature of the colonial organization of prostitution, aspiration of the government to concentrate the indigenous prostitution in a closed space and most eccentric possible.
3The racialized and asymmetrical relations between the metropolis and the colonies through regulated prostitution fully verify the organization of BMC by the military hierarchy. In North Africa, prostitutes provided to European soldiers until the early 1960s were generally of indigenous origin, as well as BMC opened in continental Europe after World War II for the indigenous troupe offered exclusively colonized women submitted. It is also significant that the abolition of prostitution regime regulated in France in 1946 has not affected the colonies. BMC continued to operate in Algeria until 1962. Minor there were operating with impunity. In response to public protests, the military hierarchy declared that French law did not cover indigenous women and their employers, who exercised according to their customs and traditions. the chain passes, the brutality, the sordid nature of gender relations doubled by ethnic relations that characterized the BMC and slaughter houses, had a corollary in clinics violence and humiliation of the weekly health check – or biweekly – prostitutes reduced to a miserable and suspicious sex. This prostitution was naturally assimilated by the separatists in the colonial order. Independence led in 1955 the closure of areas reserved to Morocco and Tunisia.
4Finalement, the French government has failed in its commitment to regulation and organization. Also participating in the development of society and cultural change associated with colonial process, clandestine prostitution developed in relation to urban growth and the increase of employed urban population, poor and decommissioned, especially among women who prostituted and among men who attended. Christelle Tap explores the underworld of colonial society which also corresponded to border areas mingled populations and cultures. It thus comes to be interested in the evolution of gender identities among individuals vectors and actors of these cultural hybridization process.
5AU total, taking into account the overall development of the Maghreb societies throughout the period, studying the history of sexuality, that of representations, practices and identities, Christelle Tap offers a comprehensive gender history in colonial situation . Able to respond to the initial interrogation, it highlights, masterfully, dynamics and structural links articulated colonial domination male domination.

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1La réédition en 2009 par les éditions Payot de l’ouvrage de Christelle Taraud offre l’occasion de rappeler l’une des études les plus originales réalisées au cours des dix dernières années sur le genre en situation coloniale. Cette enquête très fouillée sur l’histoire de l’organisation de la prostitution au Maghreb sous l’ordre colonial français, depuis les années 1830 jusqu’au début des années 1960, repose sur le dépouillement systématique des archives françaises civiles et militaires de l’outre-mer (Aix-en-Provence, Nantes, Paris, Vincennes), l’analyse d’un volume impressionnant de fonds iconographiques (cartes postales, photographies, cinéma), et des sources publiées (presse, récits de voyage, littérature). Dans cette étude, Christelle Taraud pose une question centrale : en quoi l’administration française a-t-elle organisé un système de prostitution inédit dans cette région qui a participé pleinement du dispositif colonial, et à ce titre était en rupture avec l’organisation sociale et politique de la métropole ?
2Il est significatif que la réglementation des mœurs ait accompagné fidèlement l’ordre colonial. À Alger, dès 1831, les prostituées sont enregistrées par la police – dès 1889 à Tunis, à partir de 1914 à Casablanca (p. 57). À Alger, le 11 août 1830, s’ouvre un établissement pour le contrôle médical des femmes publiques (p. 245). Enfin, selon Christelle Taraud, les premiers bordels militaires de campagne (BMC) ont été organisés par l’armée, probablement en 1831, dès le début de la conquête algérienne (p. 341). Les caractéristiques de la prostitution en situation coloniale précisées dès le début du processus étaient en rupture avec la sociologie et les pratiques prostitutionnelles pratiquées dans les sociétés précoloniales d’Afrique du Nord : l’esclavage domestique et le monde des courtisanes. La prostitution coloniale est définie par une règlementation administrative, par le contrôle individuel et sanitaire, et également par le travail d’abattage des prostituées indigènes – une sorte de « taylorisme sexuel » selon Christelle Taraud – organisé initialement par l’armée pour réguler les pulsions de la troupe. La réglementation et le contrôle des prostituées avaient pour finalité de protéger la société blanche et métropolitaine des risques épidémiologiques. De ce fait, à la différence de la métropole, l’administration organisa un système discriminatoire inscrit dans la société coloniale : la prostitution européenne était censée être cantonnée dans les maisons closes, tandis que les indigènes étaient tenues de se prostituer dans les rues et les quartiers réservés. On observe ici une autre caractéristique de l’organisation de la prostitution coloniale, l’aspiration des pouvoirs publics à concentrer la prostitution indigène dans un espace clos et le plus excentré possible.
3Les relations asymétriques et ethnicisées entre la métropole et les colonies à travers la prostitution réglementée se vérifient pleinement dans l’organisation des BMC par la hiérarchie militaire. En Afrique du Nord, les prostituées fournies aux soldats européens jusqu’au début des années 1960 étaient généralement d’origine indigène, de même que les BMC ouverts en Europe continentale après la Seconde Guerre mondiale pour la troupe indigène proposaient exclusivement des femmes colonisées soumises. Il est par ailleurs significatif que l’abolition du régime de la prostitution réglementée en métropole en 1946 n’ait pas concerné les colonies. Les BMC continuèrent de fonctionner en Algérie jusqu’en 1962. Des mineures y étaient exploitées en toute impunité. En réponse aux protestations publiques, la hiérarchie militaire déclarait que la législation française ne concernait pas les femmes indigènes et leurs employeurs, qui exerçaient selon leurs coutumes et leurs traditions. Les passes à la chaîne, la brutalité, le caractère sordide des relations de genre doublées par les relations ethniques, qui caractérisaient les BMC et les maisons d’abattage, avaient pour corollaire dans les dispensaires la violence et l’humiliation du contrôle sanitaire hebdomadaire – voire bihebdomadaire – des prostituées réduites à un sexe misérable et suspect. Cette prostitution fut logiquement assimilée par les indépendantistes à l’ordre colonial. L’indépendance entraîna dès 1955 la fermeture des quartiers réservés au Maroc et en Tunisie.
4Finalement, l’administration française a échoué dans sa volonté de réglementation et d’organisation. Participant elle aussi de l’évolution de la société et du changement culturel liés au processus colonial, la prostitution clandestine se développa en relation avec la croissance urbaine et l’augmentation des populations citadines salariées, pauvres et déclassées, notamment parmi les femmes qui se prostituaient et parmi les hommes qui les fréquentaient. Christelle Taraud explore ainsi les milieux interlopes de la société coloniale qui correspondaient également à des espaces frontières où se mêlaient les populations et les cultures. Elle en vient ainsi à s’intéresser à l’évolution des identités de genre parmi les individus vecteurs et acteurs de ces processus d’hybridation culturelle.
5Au total, en prenant en compte l’évolution générale des sociétés du Maghreb pour toute la période, en étudiant l’histoire de la sexualité, celle des représentations, des pratiques et des identités, Christelle Taraud propose une histoire globale du genre en situation coloniale. En mesure de répondre à l’interrogation initiale, elle met en évidence, magistralement, les liens dynamiques et structurels qui ont articulé la domination coloniale à la domination masculine.

進駐軍慰安所 AP 2007 — 2016年5月26日

進駐軍慰安所 AP 2007

GIs Frequented Japan’s ‘Comfort Women’

By ERIC TALMADGE
The Associated Press
Wednesday, April 25, 2007; 9:45 PM
TOKYO — Japan’s abhorrent practice of enslaving women to provide sex for its troops in World War II has a little-known sequel: After its surrender _ with tacit approval from the U.S. occupation authorities _ Japan set up a similar “comfort women” system for American GIs.

An Associated Press review of historical documents and records _ some never before translated into English _ shows American authorities permitted the official brothel system to operate despite internal reports that women were being coerced into prostitution. The Americans also had full knowledge by then of Japan’s atrocious treatment of women in countries across Asia that it conquered during the war.

Tens of thousands of women were employed to provide cheap sex to U.S. troops until the spring of 1946, when Gen. Douglas MacArthur shut the brothels down.

The documents show the brothels were rushed into operation as American forces poured into Japan beginning in August 1945.

“Sadly, we police had to set up sexual comfort stations for the occupation troops,” recounts the official history of the Ibaraki Prefectural Police Department, whose jurisdiction is just northeast of Tokyo. “The strategy was, through the special work of experienced women, to create a breakwater to protect regular women and girls.”

The orders from the Ministry of the Interior came on Aug. 18, 1945, one day before a Japanese delegation flew to the Philippines to negotiate the terms of their country’s surrender and occupation.

The Ibaraki police immediately set to work. The only suitable facility was a dormitory for single police officers, which they quickly converted into a brothel. Bedding from the navy was brought in, along with 20 comfort women. The brothel opened for business Sept. 20.

“As expected, after it opened it was elbow to elbow,” the history says. “The comfort women … had some resistance to selling themselves to men who just yesterday were the enemy, and because of differences in language and race, there were a great deal of apprehensions at first. But they were paid highly, and they gradually came to accept their work peacefully.”

Police officials and Tokyo businessmen established a network of brothels under the auspices of the Recreation and Amusement Association, which operated with government funds. On Aug. 28, 1945, an advance wave of occupation troops arrived in Atsugi, just south of Tokyo. By nightfall, the troops found the RAA’s first brothel.

“I rushed there with two or three RAA executives, and was surprised to see 500 or 600 soldiers standing in line on the street,” Seiichi Kaburagi, the chief of public relations for the RAA, wrote in a 1972 memoir. He said American MPs were barely able to keep the troops under control.

Though arranged and supervised by the police and civilian government, the system mirrored the comfort stations established by the Japanese military abroad during the war.

Kaburagi wrote that occupation GIs paid upfront and were given tickets and condoms. The first RAA brothel, called Komachien _ The Babe Garden _ had 38 women, but due to high demand that was quickly increased to 100. Each woman serviced from 15 to 60 clients a day.

American historian John Dower, in his book “Embracing Defeat: Japan in the Wake of WWII,” says the charge for a short session with a prostitute was 15 yen, or about a dollar, roughly the cost of half a pack of cigarettes.

Kaburagi said the sudden demand forced brothel operators to advertise for women who were not licensed prostitutes.

Natsue Takita, a 19-year-old Komachien worker whose relatives had been killed in the war, responded to an ad seeking an office worker. She was told the only positions available were for comfort women and was persuaded to accept the offer.

According to Kaburagi’s memoirs, published in Japanese after the occupation ended in 1952, Takita jumped in front of a train a few days after the brothel started operations.

“The worst victims … were the women who, with no previous experience, answered the ads calling for `Women of the New Japan,'” he wrote.

By the end of 1945, about 350,000 U.S. troops were occupying Japan. At its peak, Kaburagi wrote, the RAA employed 70,000 prostitutes to serve them. Although there are suspicions, there is not clear evidence non-Japanese comfort women were imported to Japan as part of the program.

Toshiyuki Tanaka, a history professor at the Hiroshima Peace Institute, cautioned that Kaburagi’s number is hard to document. But he added the RAA was also only part of the picture _ the number of private brothels outside the official system was likely even higher.

The U.S. occupation leadership provided the Japanese government with penicillin for comfort women servicing occupation troops, established prophylactic stations near the RAA brothels and, initially, condoned the troops’ use of them, according to documents discovered by Tanaka.

Occupation leaders were not blind to the similarities between the comfort women procured by Japan for its own troops and those it recruited for the GIs.

A Dec. 6, 1945, memorandum from Lt. Col. Hugh McDonald, a senior officer with the Public Health and Welfare Division of the occupation’s General Headquarters, shows U.S. occupation forces were aware the Japanese comfort women were often coerced.

“The girl is impressed into contracting by the desperate financial straits of her parents and their urging, occasionally supplemented by her willingness to make such a sacrifice to help her family,” he wrote. “It is the belief of our informants, however, that in urban districts the practice of enslaving girls, while much less prevalent than in the past, still exists.”

Amid complaints from military chaplains and concerns that disclosure of the brothels would embarrass the occupation forces back in the U.S., on March 25, 1946, MacArthur placed all brothels, comfort stations and other places of prostitution off limits. The RAA soon collapsed.

MacArthur’s primary concern was not only a moral one.

By that time, Tanaka says, more than a quarter of all American GIs in the occupation forces had a sexually transmitted disease.

“The nationwide off-limits policy suddenly put more than 150,000 Japanese women out of a job,” Tanaka wrote in a 2002 book on sexual slavery. Most continued to serve the troops illegally. Many had VD and were destitute, he wrote.

Under intense pressure, Japan’s government apologized in 1993 for its role in running brothels around Asia and coercing women into serving its troops. The issue remains controversial today.

In January, California Rep. Mike Honda offered a resolution in the House condemning Japan’s use of sex slaves, in part to renew pressure on Japan ahead of the closure of the Asian Women’s Fund, a private foundation created two years after the apology to compensate comfort women.

The fund compensated only 285 women in the Philippines, South Korea and Taiwan, out of an estimated 50,000-200,000 comfort women enslaved by Japan’s military in those countries during the war. Each received 2 million yen, about $17,800. A handful of Dutch and Indonesian women were also given assistance.

The fund closed, as scheduled, on March 31.

Haruki Wada, the fund’s executive director, said its creation marked an important change in attitude among Japan’s leadership and represented the will of Japan’s “silent majority” to see that justice is done. He also noted that although it was a private organization, the government was its main sponsor, kicking in 4.625 billion yen, about $40 million.

Even so, he admitted it fell short of expectations.

“The vast majority of the women did not come forward,” he said.

As a step toward acknowledging and resolving the exploitation of Japanese women, however, it was a complete failure.

Though they were free to do so, no Japanese women sought compensation.

“Not one Japanese woman has come forward to seek compensation or an apology,” Wada said. “Unless they feel they can say they were completely forced against their will, they feel they cannot come forward.”

___

Associated Press investigative researcher Randy Herschaft in New York contributed to this report.

http://megalodon.jp/2010-1201-1750-14/www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/04/25/AR2007042501801.html

http://megalodon.jp/2010-1201-1758-51/www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/04/25/AR2007042501801_2.html

http://megalodon.jp/2010-1201-1801-10/www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/04/25/AR2007042501801_3.html

ヒロコ・タブチ Prime Minister Denies Women Were Forced Into Brothels —

ヒロコ・タブチ Prime Minister Denies Women Were Forced Into Brothels

Prime Minister Denies Women Were Forced Into WWII Brothels

By Hiroko Tabuchi
Associated Press
Friday, March 2, 2007
TOKYO, March 1 — Japan’s prime minister denied Thursday that the country’s military forced women into sexual slavery during World War II, casting doubt on a past government apology and jeopardizing a fragile detente with his Asian neighbors.
The comments by Shinzo Abe, at a time when a number of lawmakers are pushing to roll back a 1993 apology to the women, were his clearest statement as prime minister on military brothels known in Japan as “comfort stations.”
Historians say that about 200,000 women — mostly from Korea and China — served in Japanese military brothels throughout Asia in the 1930s and 1940s. Many women say they were kidnapped and forced into sexual slavery by Japanese troops.
But Abe, who since taking office in September has promoted patriotism in Japan’s schools and a more assertive foreign policy, told reporters that “there is no evidence to prove there was coercion” against the women to make them prostitutes.
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His remarks contradicted evidence in Japanese documents unearthed in 1992 that historians said showed that military authorities had a direct role in working with contractors to forcibly procure women for the brothels.
The documents, which are backed up by accounts from soldiers and victims, said Japanese authorities set up the brothels in response to uncontrolled rape sprees by invading Japanese soldiers in East Asia.
In 1993, then-Chief Cabinet Secretary Yohei Kono apologized to the women, though the statement did not meet demands by survivors that it be approved by parliament. Two years later, the government set up a compensation fund for victims, but it was supported by private donations, not government money, and has been criticized as a way for the government to avoid owning up to the abuse.
The mandate for the fund is to expire March 31.
Abe’s comments were certain to rile South Korea and China, which accuse Tokyo of failing to fully atone for wartime atrocities. Abe’s government has been working recently to repair relations with Seoul and Beijing.
The statement came hours after South Korean President Roh Moo Hyun marked a national holiday honoring the anniversary of a 1919 uprising against Japanese colonial rule by urging Tokyo to come clean about its past.
State Department spokesman Sean McCormack declined to comment on Abe’s statement. “I’ll let the Japanese political system deal with that,” he said.
Nationalist politicians and scholars in Japan claim the women were professional prostitutes and were not coerced into servitude by the military.
Before Abe spoke Thursday, a group of lawmakers from the ruling Liberal Democratic Party discussed their plans to push for an official revision of Kono’s 1993 apology. Nariaki Nakayama, chairman of the group of about 120 lawmakers, sought to play down the government’s involvement in the brothels by saying it was similar to a school that hires a company to run its cafeteria.
“Where there’s demand, businesses crop up . . . but to say women were forced by the Japanese military into service is off the mark,” he said. “This issue must be reconsidered, based on truth . . . for the sake of Japanese honor.”
Lee Yong Soo, 78, a South Korean who was interviewed recently while she was visiting Tokyo, said she was 14 when Japanese soldiers took her from her home in 1944 to work as a sex slave in Taiwan. “The Japanese government must not run from its responsibilities,” said Lee, who has long campaigned for Japanese compensation. “I want them to apologize. To admit that they took me away, when I was a little girl, to be a sex slave. To admit that history.”

http://megalodon.jp/2016-0526-2055-03/www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/03/01/AR2007030101498.html

http://megalodon.jp/2016-0526-2057-51/www.peeep.us/ec2fa6f0

かにた婦人の村 城田すず子 —

かにた婦人の村 城田すず子

[報告] かにた婦人の村を訪問しました
城田すず子さんの一生に思いを馳せて
 11月23日に「かにた婦人の村」を訪問しました。「かにた婦人の村」は千葉県の房総半島の先っぽ、館山市にあります。25日の署名提出行動で東京に行く機会を利用して、足を延ばして行きました。ちょっと遠いところではあったのですが、それほどまでに一度訪ねてみたい場所でした。
 日本軍「慰安婦」問題に関心を持つ者にとって、「かにた婦人の村」は特別な場所です。日本人として唯一名乗り出られた城田すず子さん(仮名)が晩年過ごした場所だからです。
 城田すず子さんが公に自らの苦しい過去を名乗り出られたのは1984年のこと。金学順さんが名乗り出られるはるか前で、ペ・ポンギさんただひとりが「慰安婦」被害者として認知されていました。そんな時代に名乗り出るなんて、相当勇気が必要だったことでしょう。
 城田すず子さんは夜眠れなかったのだといいます。悲惨な戦争体験が夜ごと彼女を苦しめていたのです。そこで城田さんは、「かにた婦人の村」の開設者である故・深津文雄牧師に「戦後40年経っているのに誰も言わない。夜眠っていても眠れない。慰霊をして欲しい」と願い出ます。深津牧師は彼女の気持ちを汲み、施設内の小高い丘にヒノキの柱をたて、慰霊しましました。その話はTBSのラジオ番組として放送され、瞬く間に広まり、1年後の1985年、寄付者と同じ数の166個の石に囲まれた土台の上に、「噫(ああ) 従軍慰安婦」と刻まれた石碑が建立されたのです。
 私が訪れた日は時折雨もぱらつく曇天だったのですが、碑のある丘からは対岸の相模半島を間近に望むことができました。天気がよければ富士山も見えるそうです。その小高い丘にひっそりと佇んでいる碑はただ「噫 従軍慰安婦」とだけ刻まれていて、深いため息のような「噫」という音が、城田すず子さんの思いを全て言い表していました。

 「かにた婦人の村」の施設長の天羽道子さんにお話を伺うことができました。
 「かにた婦人の村」は売春防止法が成立したのを機に作られた、婦人保護長期収容施設です。社会復帰の困難な売春制度の被害者のために、静かに暮らせるコロニーとして作られました。初めは東京にあったそうですが、都会の喧噪から逃れるように人里離れたこの地に作られました。(ナヌムの家を思い起こさせます。)平均年齢が70代と高齢化の進むコロニーではありますが、最近施設に入所した20代や30代の女性もいるそうです。性産業に従事する女性は、精神疾患や、あるいは生まれながらの精神遅滞、発達障害を負った人が少なくありません。社会の障害者に対する無理解が女性を性産業へと追いやり、またその過酷さが女性たちを解離や統合失調などの精神疾患へと苛みます。現在でもこの施設に入所する人がいるという事実は、私にとっては少なからずショックでした。「ひとりの人間が苦しみの海に身を沈めるのは、ただ貧しいからだけではない。それに先立つ障害があるから」と天羽さんは仰いました。
 もうひとつ忘れられない言葉があります。私は城田すず子さんが名乗り出られた後の状態が気になっていました。すると天羽さんはこう仰いました。「日本のマスコミの取材は極力受けないようにしていました。体調が悪かったこともありますが、やはり興味本位なマスコミが多かったものですから。でも韓国からの取材は極力受けるようにしていました。同僚の『慰安婦』に朝鮮人が多かったものですから。『声を発してください』というメッセージだったのかも知れません」と。

 城田すず子さんは台湾やトラック島など様々な遍歴があるのですが、最後はパラオの『慰安所』で働いていました。その『慰安所』は沖縄の人と朝鮮人ばかりだったそうです。女性たちは爆弾でバラバラになった人の肉の散らばる戦場を彷徨い、生き残ってもなお「こんな身になっては帰ることはできない」と島に居残った女性が多くいたそうです。
 城田さんが苛まれた悪夢とはどのようなものだったのでしょうか? 韓国のマスコミには応じていた城田さんの気持ちとは……。むしろ日本社会の醜悪さばかり目立って、怒りがこみ上げてきてなりません。
 城田すず子さんの記した『マリヤの賛歌』という本があります。この本は城田さんが1956年に脊柱骨折で倒れられて、その絶対安静の病室で語られた内容を活字におこしたものなのだといいます。初版は1971年となっているから、先述の1984年というのは名乗り出たというよりも、「有名になった」くらいのものかも知れません。現在は絶版され、「かにた婦人」の村で自費出版されています。長らく読みたかった本なのですが、今回の訪問でやっと手に入れることができました。ここにはひとりの女性の、死と再生の物語が記されています。

 「慰安婦は売春婦だった」「商行為だった」という人がいます。そう主張することによって被害者を被害者でないかのように、歴史を歪曲したい人たちの言い分です。城田すず子さんは、確かに売春婦だったかも知れません。しかしここに書かれている人生は、商行為だったかとか、強制だったかとか、……そんなことは下らない、「慰安婦」問題の本質とは全くかけ離れた議論なのだということを教えてくれます。貧困を許容する社会が、障害を理解しない社会が、そして戦争が、戦時性奴隷制度を生むのです。それは戦後の性暴力問題についても同じこと。女性が傷つき耐えられず、悪夢に苛まれているというのに、それは被害でなかったなどと、それがまともな魂の言える言葉でしょうか?!
 二日後、東京の署名提出行動集会で、吉元玉ハルモニや宋神道ハルモニなど、たくさんの被害女性に会いました。みなさん高齢です。これまでたくさんの被害者の訃報に接してきました。城田すず子さんは1993年に亡くなられました。
 せめて、今生きている被害者への謝罪と補償、尊厳回復を実現しなければ。城田すず子さんの暮らした地で、そう決意を新たにしました。
2010年12月23日
リブ・イン・ピース☆9+25 カラン
  (リブインピースだより第14号より転載)
https://web.archive.org/web/20120728063109/http://www.liveinpeace925.com/sex_slavery/kanita_fujinnomura.htm
http://megalodon.jp/2016-0526-2026-58/www.liveinpeace925.com/sex_slavery/kanita_fujinnomura.htm

韓国、元慰安婦の教科書記載を義務づけへ 2011 —

韓国、元慰安婦の教科書記載を義務づけへ 2011

韓国、元慰安婦の教科書記載を義務づけへ

asahi 2011年12月19日

 韓国の国史編纂(へんさん)委員会の傘下機関は19日までに、2013年からの高校歴史教科書に元日本軍従軍慰安婦の記述を義務づける方針を決めた。同機関は国定教科書の記述の基準を定める権限を持つ。慰安婦問題はこれまでも記述されていたが、義務ではなかった。

 傘下機関は16日の公聴会で、日本統治時代に起きた強制動員を巡る記述基準の方針を説明。その後、慰安婦問題の記述を求める指摘があり、方針を変更した。今月末に最終決定する。

 一方、韓国各紙は19日付朝刊で、日韓首脳会談で慰安婦問題の解決を求めた李明博(イ・ミョンバク)韓国大統領の発言を好意的に報道。社説でも「韓日が前に進もうとするなら、慰安婦問題を解決すべきだ」(東亜日報)、「勇気ある決断が必要」(中央日報)などと、日本側の譲歩を促した。

 同時に、ソウルの日本大使館前に設置された記念像の撤去や竹島の領有権問題を取り上げた日本側の対応を批判。日韓関係が当面停滞するとの見方を示した。(ソウル=牧野愛博)

http://megalodon.jp/2012-0919-1444-08/www.asahi.com/international/update/1219/TKY201112190211.html

アジア女性基金 慰安婦の人数・民族 —

アジア女性基金 慰安婦の人数・民族

慰安所と慰安婦の数
 慰安所はアジア全域に広がりました。昭和17年(1942年)9月3日の陸軍省恩賞課長の報告では、「将校以下の慰安施設を次の通り作りたり。北支100ヶ、中支140、南支40、南方100、南海10、樺太10、計400ヶ所」とあります。
 基金の資料委員会の報告書掲載の論文は、政府資料にもとづいて、中国の揚子江ぞいにあった慰安所について、上海約24、杭州4、鎮江8、常州1、揚州1、丹陽1、南京約20、蕪湖6、九江22、南昌11、漢口20、葛店2、華容鎮2、応山1、宜昌2 を数えています。以上で125です。別の資料から、少なくとも蘇州1、安慶2を加えることができます。これだけで、すでに130ヶ所に近付いています。 さらに同じ論文は、個別のデータを総合して、純粋民間の施設も含めて、フィリピンは30ヶ所、ビルマは50ヶ所以上、インドネシアは40ヶ所以上、この3国で120ヶ所以上になると推測しています。これでも南方100ヶ所をこえています。南海方面ではソロモン島のラバウルだけで海軍の慰安所6があり、他に陸軍の慰安所もあるので、総数は20と推測されています。ラバウルだけで南海10を超えています。

先の恩賞課長報告にはあげられていませんが、その後沖縄にも慰安所がつくられました。沖縄の研究者は130ヶ所と数えています。

一体どれほどの女性たちが日本軍の慰安所に集められたのか、朝鮮人慰安婦の比率はどの程度であったのか、どれほどの人々が戦場から帰らなかったのかというような点については、今日でも確実な答をえるような調査ができていません。
まず慰安婦の総数を知りうるような総括的な資料は存在していません。総数についてのさまざまな意見はすべて研究者の推算です。

推算の仕方は、日本軍の兵員総数をとり、慰安婦一人あたり兵員数のパラメーターで、これを除して、慰安婦数を推計するやり方があります。この場合に交代率、帰還による入れ替りの度合いが考慮に入れられます。

研究者たちの推算

研究者名 発表年 兵総数 パラメーター 交代率 慰安婦数
秦郁彦 1993 300万人 兵50人に1人 1.5 9万人
吉見義明 1995 300万人 兵100人に1人 1.5 4万5000人
兵30人に1人 2 20万人
蘇智良 1999 300万人 兵30人に1人 3.5 36万人
4 41万人
秦郁彦 1999 250万人  兵150人に1人 1.5 2万人

参考文献:

吉見義明 『従軍慰安婦』岩波新書、1995年
秦郁彦 『昭和史の謎を追う』下、文藝春秋、1993年
『慰安婦と戦場の性』新潮社、1999年
蘇智良 『慰安婦研究』上海書店出版社、1999年

問題はパラメーターと交代率の取り方であることは明らかです。「兵100人女1名慰安隊ヲ輸入」という言葉が金原メモに見える昭和14年4月の上海第21軍軍医部長の報告にあります(上海第21軍軍医部長報告 金原節三資料摘録より)。この数字を基準に考えれば、兵士100人当たり慰安婦1人ということは、兵士が毎月1回慰安所にいくとしたら、慰安婦は日に5人を相手にして、月平均10日は休んでいるという状態です。

民族別については、金一勉氏が、慰安婦の「8割ー9割」、17ー20万人が朝鮮人であると主張しましたが、この面でも総括的な統計資料は存在しません。各種の資料を総合して言えることは、朝鮮人慰安婦は多かったが、絶対的多数を占めるにはいたっていないということです。日本人慰安婦も多かったと言えます。

昭和13年11月から14年12月まで台湾各州を経由して中国へ赴いた軍慰安所関係者の民族別構成

内地人 朝鮮人 本島人
台北州 649 207 229
新竹州 65 86 11
台中州 3 143 27
高雄州 218 53 117
台南州 3 72 0
938(49.8%) 561(40.1%) 384(20.4%)
『資料集成』1巻 171-210、219-251、257-297、301-337、407-415頁
高雄州は13年12月の資料を欠く、台南州は13年12月、14年7月、11月の資料のみ

1998年6月22日、国連人権委員会マイノリティ差別防止・保護小委員会特別報告者ゲイ・マクドゥーガル氏は同小委員会に報告「奴隷制の現代的形態ーー軍事衝突の間における組織的強姦、性的奴隷制、及び奴隷制的慣行」を提出しましたが、それに付録として報告「第二次大戦中の慰安所にたいする日本政府の法的責任についての分析」(全文はこちら)が付されました。その中で、氏は次のように述べています。

「日本政府と日本軍は1932年から45年の間に全アジアのレイプ・センター rape centresでの性奴隷制を20万以上の女性に強制した。」
「これらの女性の25パーセントしかこのような日常的虐待に堪えて生き残れなかったと言われる。」

根拠としてあげられたのは、第二次大戦中に「14万5000人の朝鮮人性奴隷」が死んだという日本の自民党国会議員荒船清十郎氏の「1975年(ママ)の声明」です。

荒船清十郎氏の声明とは、彼が1965年11月20日に選挙区の集会(秩父郡市軍恩連盟招待会)で行った次のような発言のことです。

「戦争中朝鮮の人達もお前達は日本人になったのだからといって貯金をさせて1100億になったがこれが終戦でフイになってしまった。それを返してくれと言って来ていた。それから36年間統治している間に日本の役人が持って来た朝鮮の宝物を返してくれと言って来ている。徴用工に戦争中連れて来て成績がよいので兵隊にして使ったが、この人の中で57万6000人死んでいる。それから朝鮮の慰安婦が14万2000人死んでいる。日本の軍人がやり殺してしまったのだ。合計90万人も犠牲者になっているが何とか恩給でも出してくれと言ってきた。最初これらの賠償として50億ドルと言って来たが、だんだんまけさせて今では3億ドルにまけて手を打とうと言ってきた。」

日韓条約締結時に韓国側は、韓国人労務者、軍人軍属の合計は103万2684人であり、うち負傷ないし死亡したのは10万2603人だと指摘しました。慰安婦のことは一切持ち出していません。ですから、荒船発言の数字はすべて荒船氏が勝手にならべた数字なのです。国連機関の委嘱を受けた責任ある特別報告者マクドゥーガル女史がこのような発言に依拠したことは残念です。

蘇智良氏もこの荒船発言を知り、これに依拠して、朝鮮人慰安婦が14万2000人いたとすれば、36万、ないし41万の慰安婦総数のうち、中国人慰安婦は20万人にのぼると結論しています。これも荒船発言に誤導された推論だと考えられます。

http://www.awf.or.jp/1/facts-07.html

[下訳]「憲法9条-世界へ未来へ連絡会」水曜デモ主管 —

[下訳]「憲法9条-世界へ未来へ連絡会」水曜デモ主管

日本の市民団体、水曜集会の現場で「慰安婦問題の解決に助ける ”

日本の市民団体「憲法9条-世界へ・未来へ連絡会」1232回水曜集会主管
「日本憲法9条守護」、「戦争反対」、「慰安婦問題の解決を促す」などの決意

フォーカスニュース 2016-05-25

(ソウル=フォーカスニュース)日本の市民団体が「第1232回日本軍慰安婦問題解決のための定期水曜集会」を主管して慰安婦たちのために一緒に戦うと約束した。日本の市民団体「憲法9条-世界へ未来へ連絡会」(以下、9調教)は25日昼12時、ソウル鍾路区中学洞昔の日本大使館の向かい側で開かれた需要集会で「昨年12月に日韓両国政府が結んだ合意は慰安婦被害者の痛みを無視した拙速合意だった」と明らかにした。この日の団体を代表して発言した星川ズに(68・女)氏は、「我々は、日本の人ですが、おばあちゃんたちを応援する活動をしている。祖母誠に申し訳ないという言葉を伝える」と述べた。続いて、「過去4月、日本熊本と大分の地震が発生したときギムボクドン・キル・ウォンオクおばあさん ​​が喜んで寄付に参加したという話をニュースを介して接して心から感動した」とし、この日参加した二慰安婦に感謝の言葉を伝えた。この団体は「憲法9条守護」、「反戦運動」、「アジア平和運動」などの活動をしており、2008年からは毎年一回以上の水曜集会を主催したり、参加してきた。この日の彼らは日本の憲法9条を直接朗読する一方憲法9条を廃棄して、「普通の国家」で進もうとする日本の安倍晋三首相を批判するパフォーマンスを披露した。日本憲法9条は、第二次世界大戦後、米国など戦勝国の主導で作られたもの」、陸海空軍その他パワーリザーブ禁止」 、「国家交戦権を認めない」などの内容を含んでいて、別名「平和憲法」と呼ばれている。星川氏は、「7月に日本で参院選が行われる。その時、私たちは、憲法9条を廃棄しようとする安倍首相の退陣運動を繰り広げる考え」とし「慰安婦をも熱心に戦うので、私たちを応援してほしい」と言って、多くの集会の参加者から拍手を受けた。団体はこの日声明書を通じて△被害者に対して、日韓合意に反対△平和非撤去反対△安倍政権の「戦争可能な国家」に反対△平和憲法守護△慰安婦問題解決のための闘争などの活動をすることを決意した。ユン・ミヒャン韓国挺身隊問題対策協議会常任代表は「離れて日本で慰安婦たちを応援するために探して準団体に感謝の言葉を伝える」とし「今後も戦争の惨禍の中で傷ついたアジア諸国と連帯して日本軍慰安婦問題を解決するために最善を尽くしたい」と述べた。一方、この日の集会末尾には「小さな少女像プロジェクト」に参加した作家たちがユン・ミヒャン挺対協の代表で定義記憶財団後援金を渡したりした。集会には、学生・宗教家・市民団体の会員など350人余り(警察推算)が参加した。

https://web.archive.org/web/20160525175400/http://www.focus.kr/view.php?key=2016052500134007237

http://megalodon.jp/2016-0526-0630-52/www.focus.kr/view.php?key=2016052500134007237