帝国の慰安婦:在宅起訴の朴教授との一問一答 「起訴はちょっと予想外」
毎日 2015年12月03日
著書「帝国の慰安婦」で元慰安婦の名誉を毀損(きそん)したとして在宅起訴された韓国の朴裕河(パク・ユハ)世宗(セジョン)大教授が、11月29日にソウルで毎日新聞と行ったインタビューの一問一答は以下の通り。【聞き手・大貫智子、米村耕一】
−−起訴についてどう受け止めているか。
◆前から検事に起訴すると言われていた。「それは不当だ」と抗議したところ「では(当事者同士が話し合う)調停にしますか」と言われた。調停の際に(元慰安婦側から)いくつか条件が提示され、中でも「日本語版の一部削除」というのは困難だと思ったので、一番できないことから伝えた。このことを言うために、元慰安婦のおばあさんにも電話した。
法的に考えれば名誉毀損にあたると検事は半年前から言っていた。このため(起訴を)予想しなかったわけではないが、調停の過程で「日本語版の一部削除」というのは、検事も不当だと思っているかのような印象を私は受けた。
それを額面通りに受け止めた私が悪いのかもしれないが、起訴はちょっと予想外だった。予想外だったし、暗たんたる気持ちになった。
−−応じられない条件とは、学問の自由に関わることか。
◆まず、一番難しいのは日本語版のことだ。既に一定の評価を受けている。それを削除したりするのは、あり得ない。出版社にも、それを要求したいという気持ちにはならなかった。
これは単なる本だけの問題ではない。慰安婦の名誉毀損の問題だけでもなく、多岐にわたる問題だ。論点がたくさんある。それをきちっと話せるのは法的な空間ではない。
法廷に持っていくべきではないと私が思うのは、そのためだ。しかし、その中に入ってしまい、法的には問題だと言われた。やはり、告訴自体が問題というほかない。
告訴には反対するが、本の中身には同意しないという議論がずっとあった。でも、それを言っていた人がちゃんと告訴を批判したかというと、そうではない。告訴自体を批判した人はごく少数だ。
韓国のアカデミズムにも問題がある。告訴された際、裁判所に送る嘆願書に100人ほどの学者が署名してくれた。しかしその後、議論を広げるような動きはなかった。むしろ、その他の文化人や論客と言われる人たちの擁護が目立った。
−−アカデミズムの中でも慰安婦問題については表現の自由、学問の自由がなかったということか。
◆それはとても複雑な問題だ。(元慰安婦は)強制連行(された)という見方に対し、(慰安婦問題を)研究していた人たちは(強制連行とは)違うということもちょっと分かってきたはずだ。学界の中ではもちろん(そういう話が)出ていた。しかし、公には出ていない。
そうした中で「そんなことは知っている、しかしそれを公に言うのは問題だ」という人もいる。そういう意味では(表現、学問の自由のなさは)あったかもしれない。
「軍人が連れて行った」という支援団体が出した情報を公式に修正したことは一度もない。それが私は問題だと思う。強制連行説とは違う(必ずしも強制連行ではないとの)見方が注目された時、「そんなことは知っている」というふうに言う。公に修正すべきなのに、それまで言っていたことを守るために公には言わない。そういうことが起きているのはとても問題だ。
「朴裕河の主張は間違っていないかもしれないが、日本が謝罪していないのになぜそれを公に言わなければいけないのか」と言う人もいる。だが、皆これまでの枠組みを守るためにそう言っているとしか考えられない。
(相手が私のことを)「研究者じゃないのに」とか「専門家じゃないのに」と考えることもありうると思うが、私は学術書として学界で認められたくて本を出したわけではない。
文献をすべて読んでいるわけではないが、先行研究で押さえるべきところを落としているとは思っていない。しかし、私が研究不足だというふうに、いわゆる「専門家」は言う。そういう構造がある。
韓国で私を告訴している形になっているが、その後ろには在日の知識人がいるし、告訴の後も日本の研究者の研究を基に私の本は「うそ」だと原告側が言い続けたという点では、日本ともつながっている。
ある日突然、おばあさんらが告訴したと伝えられているが、その背後には(前著「和解のために」以来の)この10年間の歴史認識をめぐる知識人の考え方のぶつかり合いがある。
−−日本で11月26日に村山富市元首相らが起訴に抗議する声明を出した。何らかの反響、影響はあったか。
◆(韓国紙の)東亜日報が声明の記事を書いたし、日本の、特に慰安婦問題に関わった人が抗議の中心にいたということで、韓国ではかなり当惑、ショックを与えた感じはある。
朝鮮日報にも声明の記者会見の現場にいた記者のコラムが出たが(声明の賛同者が)「合理的な日本、良心的な日本を代表する」人だったということで、困惑したという書き方をしていた。
国民日報には「帝国の慰安婦の読み直し」というタイトルのコラムも出た。誤読された可能性も考えなければならないと書いていた。私にとってはありがたかったし(声明は)それだけのインパクトがあったと考えている。
−−検察の判断資料の中に旧日本軍の関与を認めた河野洋平官房長官談話(1993年)があったが、声明の賛同人に河野洋平元衆院議長自身が名を連ねている。
◆そうだ。私を批判した人たちが「河野談話」を根拠にしているから、(談話の)読み方自体が違うわけだ。私は談話を強制的連行じゃないと読んでいるが、批判する人は強制連行と読んでいる。それは間違いだと(河野氏があるインタビューで)おっしゃってくださり、私に同意してくださったので、うれしかった。ただ、韓国にはあまり届いていないと思う。
−−訴訟が進む中で、メディアなどを通じて米国でも報道されると、韓国でも受け止め方が変わるだろうか。
◆もちろん反発もあるだろう。本当にアイロニー(皮肉)だが、韓国はこの20年間、慰安婦問題を外国に訴えて日本を圧迫するやり方でやってきた。ところが、その過程でいろいろあり、反感を持つ人を日本で増やしてしまった。私は米国に訴えるというやり方は問題だと思っていたし、効果的だとも思っていなかったので、そういうことを書いた。
私は米国に向けて訴えようとしたわけではないが、米国に向けて(慰安婦問題の訴えを)やってきた人たちがしてきたことについて、欧米系メディアが聞きに来る。私が望んだ事態ではない。アイロニーだと思っている。
本の英訳の話は前からあった。まだ本格的ではないが、こういう(在宅起訴という)ことになったので、これまで以上に告訴側が望んでいない事態になるかもしれない。
−−12月14日からの裁判にどう臨むか。
◆私はこれまで「表現の自由」や「学問の自由」を強調してはこなかった。表現の自由があるから何を言ってもいいと主張しているように受け止められがちだからだ。
私は、自分の本はおばあさんの名誉を毀損するようなものではないと訴えてきた。しかし、それが功を奏さなかった。つまり、私がそういう意図で書いていなくてもおばあさんが傷ついたなら(起訴されるのも)仕方がないという考え方だ。
だが、おばあさんの誰がどういう過程を通して傷ついたのかがはっきりしない。私が知る限り、読んだ人が自分の解釈を伝えている。
問題点を指摘する際には、自分の解釈が入っている。「売春婦であってはいけない」とか「自発的であってはいけない」という観念がある。
もちろん、私は「自発的な売春」という言葉は使っていない。全体としてそういうふうに受け止められてしまう書き方だったのかもしれない。しかし、私はそこが重要なポイントではないと言っているつもりだ。
全ては読解、解釈の問題だ。私は専門が文学なので、テキストを読むことをずっとやってきた。その分、読むのに忍耐が必要な書き方をしているのかもしれない。「A」と書いて、いや同時に「Aダッシュでもある」というように。日本と韓国の両方、支援者と批判する人の両方に向けて書いているからだ。(問題点を)分析した人は、そこを耐えて読むことをしなかったということだろう。
−−起訴は大学での職に影響があるか。
◆影響を懸念してはいるが、今のところは、まだ大学側から何も言われていない。
−−歴史の当事者でない人は、どう歴史に向き合うべきなのか。
◆(慰安婦問題で)私たちは当事者ではない。おばあさんは当事者だ。この問題を考えているのはメディアや学者、いろんな人たちだが、大半は当事者ではない。
歴史の流れの中で、亡くなった人が最も悲惨な体験を持つことは言うまでもない。亡くなった人や体をだめにした人。そういう人の思いは、なかなか見えてこない。
いくつかの声に注目が集まり、それに動かされるが、あの時代を生きた人は他にもたくさんいる。なのに多くは自分の今の考え方、歴史観に基づいて、あの時代の当事者を裁断し、解釈している。
そうではなく、本当の当事者たちの声をきちんと聞くべきだ。亡くなった人でも生存者でも。
−−歴史を利用する人がいると考えるのか。
◆歴史を利用しているという自覚を持っている人は少数だと思う。やや単純化して言えば、自分の立場がまずあって、そこから物事を見ている。なので左翼と右翼に分かれたり、韓国と日本に分かれたりするほかない。
両極端なことを言って対立している。しかし、そうしたスタンスから歴史を眺めつつも、立場を超えて倫理的に合理的に考える必要がある。
それをしないがために、中間に位置する人が対立に巻き込まれやすい。そうした(中間に位置する)考えの人が、きちんと考えるべきだし、発言もすべきだし、行動もすべきだと思う。
今までそうした発言が少なかった。両極端な言葉に影響され、ますます対立が深まっている。そうした構造を変える時に来ている。(日本で発表された)声明は、そうした一つの動きと考えている。
両極に分裂し、その中間の空間がない。何かを言えば「日本寄り」だと見られる。だから私も激しくたたかれているところだが、声明は、そうしたところをこじ開け、少し空間を作ったというふうに私は考えている。
http://megalodon.jp/2015-1204-1918-20/mainichi.jp/feature/news/20151203mog00m030021000c.html
最近のコメント