イ・スンドク芳名帳に外交部長官名 — 2017年4月8日

イ・スンドク芳名帳に外交部長官名

ユン・ビョンセ外交部長官、亡くなった「慰安婦」被害者の“代理弔問”が物議

2017.04.05ハンギョレ

「メディアモング」4日、ツイッターに
故イ・スンドクさんの葬儀室芳名録写真上げ
外交部関係者「ユン長官の名前で香典出し名前を書いた」

ユン・ビョンセ外交部長官が日本軍「慰安婦」被害者の故イ・スンドクさんの葬儀室を訪れていないのに、自分が来たかのように芳名録に名前を上げた事実が知らされ物議をかもした。
1人メディアの「メディアモング」は4日、自身のツイッターに写真一枚を公開し「日本軍『慰安婦』被害者イ・スンドクさんの葬儀室芳名録にユン・ビョンセ外交部長官の名前が記されています。弔問に来てもいないのに、いつもこのようなやり方ですね」と書いた。写真の中に記載された姓名欄にはユン・ビョンセ外交部長官の名前と外交部関係者の名前が並んで記されている。

ユン長官はこの日、イ・スンドクさんの葬儀室には来なかった。チョン・ビョンウォン外交部東北アジア局長とまた別の外交部関係者だけが弔問した。チョン局長がユン長官名の香典を出しながら、芳名録にユン長官の名前を記入したということだ。外交部関係者は5日、ハンギョレとの通話で「慰安婦被害者が亡くなれば、外交部は今までも東北アジア局長が弔問に行ったし、長官名義の香典を出した」として「長官名で香典を出したので名前を書いた。他意があったわけではない」と話した。韓日慰安婦合意を主導したユン長官が、葬儀室を訪ねていなかった事実がソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)を通じて知らされ、ネチズンは「慰安婦被害者の葬儀にも来ない外交部長官」などの批判が噴出した。

先日4日午前7時30分頃、日本軍「慰安婦」被害者のうちで最高齢だったイ・スンドクさんが死亡した。

1918年、全羅北道金堤(キムジェ)で生まれたイさんは、1934年17歳の時に「米の飯、良い服ももらえるという日本人の話にだまされて」日本軍に連れていかれ、満州と上海を転々として苦難に遭い1945年の解放以後に韓国に戻った。

「慰安婦」問題に火が点いた後は、世界各地を巡って証言活動を繰り広げたイさんは、1998年5年5カ月間の法廷闘争の末に初めて日本の裁判所から30万円の賠償金支給判決を引き出しもした。普段から「慰安婦」問題の活動家たちは、イさんが寒い冬にも枯れない椿に似ているとして「椿おばあさん」と呼んだ。

イさんは麻浦区(マポグ)にある「慰安婦」被害者の憩いの場である「平和のわが家」で過ごした。2014年6月に老患が激しくなり近隣の療養病院に入院していた。イさんの葬儀室はソウル市西大門区(ソデムング)の延世大学校セブランス病院葬儀場第14号室で、6日午前に出棺予定だ。一般人の弔問も可能。

パク・スジン、キム・ジウン記者

韓国語原文入力:2017-04-05 15:58
http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/789391.htm

http://megalodon.jp/2017-0408-0508-20/japan.hani.co.kr/arti/politics/26982.html

https://web.archive.org/web/20170407200827/http://japan.hani.co.kr/arti/politics/26982.html

キム・ギョンスン 「大統領と首相が決めたこと。従わなければならない」 — 2016年2月29日

キム・ギョンスン 「大統領と首相が決めたこと。従わなければならない」

元慰安婦「従わなければならぬ」 日韓合意に評価と反発

朝日2016年2月29日

旧日本軍の慰安婦だったキム・ギョンスンさんが20日、韓国ソウル市内の病院で亡くなった。89歳だった。遺族によると、キムさんは生前、昨年12月の慰安婦問題の日韓合意について「朴槿恵(パククネ)大統領と安倍晋三首相が決めたことだから、それに従わなければならない」と語っていた。

日韓合意から28日で2カ月がたった。この間、キムさんら元慰安婦が2人亡くなり、存命は44人。韓国では支援団体などの反発が続く一方で、評価する元慰安婦らの声はほとんど表には出ていない。

遺族によると、キムさんは慰安婦問題で日韓関係が悪化していたことを心配し、今回の合意も喜んでいた。遺族は、合意に盛り込まれた内容が実行に移される前に亡くなったことについて「残念だ」と語った。

韓国北部に住む元慰安婦の女性は「私の人生は台無しになった」と自身の人生を振り返った。それでも合意について「安倍首相は謝罪してくれた。朴槿恵大統領も男性の大統領ができなかったことを成し遂げた。ありがたい」と評価した。

日韓合意では、韓国政府が設立する財団に日本政府が予算から10億円を拠出し、両政府が協力し、元慰安婦の名誉と尊厳の回復、心の傷を癒やす事業を行うことになっている。その一つとして、元慰安婦に一定額を支給する案が有力視されている。この女性は「お金を受け取ったら、子どもに送りたい」と話した。

一方、元慰安婦が共同生活を送る「ナヌムの家」(京畿道広州市)では27日、元慰安婦の家族や遺族らが記者会見して反対を表明した。元慰安婦の李玉善(イオクソン)さん(88)も同席し、「(日本政府が)おばあさんの前でひざまずいて謝罪すべきだ」と訴えた。

韓国政府は財団を今年上半期に設立することを目標にしている。ただ、無理に進めればさらなる反発を招き、事業を円滑に進められないおそれもある。野党も4月13日の総選挙で、朴政権を批判する材料に使うとみられている。

 

http://megalodon.jp/2016-0229-2105-49/digital.asahi.com/articles/ASJ2X7FJ7J2XUHBI012.html?_requesturl=articles%2FASJ2X7FJ7J2XUHBI012.html&rm=435

チェ・カプスン死去 — 2015年12月10日

チェ・カプスン死去

慰安婦被害者 チェ・カプスンさん死去 今年に入り8人目
登録 : 2015.12.06 22:44修正 : 2015.12.07 01:59

生存被害者は46人に
日本軍慰安婦被害者チェ・カプスンさんが5日0時56分、老衰で死亡した。 享年96。韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)は、1919年全羅南道求礼(クレ)で生まれた故人は15歳で8人の生計の責任を負った父親の代わりに日本の巡査に連行された後、満州の牡丹江付近の日本軍部隊で慰安婦として暮らしたと明らかにした。 1945年に解放をむかえた後、3~4年間にわたり行商やもの乞いをしながら故郷に到着した故人は、生涯を農作業をして生きた。葬儀室は京畿道南揚州(ナムヤンジュ)市の漢陽(ハンヤン)病院、出棺は7日。 今年に入って8人目のチェ・カプスンさんの死亡により、韓国政府に登録された被害者238人のうち生存者は46人に減った。

キム・キュナム記者

韓国語原文入力:2015-12-06 20:55
http://www.hani.co.kr/arti/society/obituary/720624.html

http://megalodon.jp/2015-1210-0710-41/japan.hani.co.kr/arti/politics/22709.html

https://web.archive.org/web/20151209221045/http://japan.hani.co.kr/arti/politics/22709.html

キム・ウェハンさんとキム・タルソンさん —

キム・ウェハンさんとキム・タルソンさん

日本政府公式謝罪ないまま二人の慰安婦ハルモニが同じ日に亡くなる
ハンギョレ日本語 : 2015.06.12 22:34修正 : 2015.06.13 07:35

キム・ウェハンさんとキム・タルソンさんが11日逝去
政府登録238人中、生存者は50人に
安東と浦項に葬儀室…
13日に出棺予定

「辛かったこと、悲しかったこと、全てお忘れになって安らかにお眠り下さい。後は私たちが解決しますから」。12日午後5時20分、慶尚北道・浦項(ポハン)の市民葬儀場101号。日本軍慰安婦被害者ハルモニ(おばあさん)のイ・ヨンスさん(87)がキム・タルソンさん(90)の遺影の前で涙を流した。 遺影を手で撫でたイ氏は、菊の花一輪を遺影の前に置いて独り言を言った。「とうとう50人になりました…」。11日午後9時15分、日本軍慰安婦被害者のキム・タルソンさんが慶尚北道浦項のある療養院で生涯を終えた。 同じ日午後8時40分には慰安婦被害者のキム・ウェハンさん(81)も京畿道・広州(クァンジュ)のある病院で目をとじた。 2人が亡くなり、政府に登録された慰安婦被害者238人中の生存者は50人に減った。

キム・タルソンさんは1925年、浦項で3男3女の二番目に生まれた。 18歳だった1943年、母親について浦項の興海(フンヘ)市場でニシンを売っているときに日本の警察に連れて行かれた。ミャンマーで日本軍慰安婦として苦難に遭った。 解放以後、1945年に満身瘡痍になった身を引きずるようにしてミャンマーから船に乗り釜山に到着した。 健康状態が悪くてすぐには故郷へ戻れず、釜山で2年間留まった。1947年に浦項に戻ったが、1950年に朝鮮戦争が起きて兄と弟を共に失った。

以後、キム・タルソンさんは野菜や魚を売りながら一人で暮らし、49歳になった1974年に夫(当時50歳)に出会い一緒に暮らした。 1996年に慰安婦被害者として登録した。 2006年に結婚式を挙げたが、「私は婚姻届を出す人にはなれない」として婚姻を届けなかった。

1934年、慶尚北道・安東(アンドン)で生まれたキム・ウェハンさんは1945年2月に日本の北海道に連れて行かれた。 わずか11歳の時だった。 あらゆる苦難に遭い慰安婦生活を耐えたキム・ウェハンさんは徴用に行ってきた夫(89)と結婚した後、慶尚北道安東で暮らした。4男1女をもうけたキム・ウェハンさんは1998年に夫の勧めで政府に慰安婦被害者として登録した。 故人は生存慰安婦ハルモニの中で年齢が最も幼かった。 健康が悪化した故人は2012年にナヌムの家に住居を移した。 キム・ウェハンさんは目をとじる前の数カ月間、病床で日本政府の謝罪を待ちながら闘病してきたとナヌムの家関係者は伝えた。 故人は生前「その人でなしどもは幼い子供を連れて行き無慈悲に凌辱した。 あいつらは人間ではない。 幼かりし時に一緒に遊んだ友達は皆連れて行かれ、死んでしまい私一人だけが生きて帰ってきた」として、日本政府の公式謝罪を要求した。

キム・タルソンさんの葬儀室は浦項市民葬儀場に、キム・ウェハンさんの葬儀室は慶尚北道安東医療院に用意された。出棺は揃って13日に予定されている。

光州、浦項/キム・キソン、キム・イルウ記者

韓国語原文入力:2015-06-12 20:58
http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/695769.html

http://megalodon.jp/2015-0613-2023-18/japan.hani.co.kr/arti/politics/20987.html

https://web.archive.org/web/20150613182344/http://japan.hani.co.kr/arti/politics/20987.html

青森県の慰安所に — 2015年6月27日

青森県の慰安所に

83歳の元慰安婦が死去…日本の謝罪受けなければならない生存者、もう49人だけ

韓国挺身隊問題対策協議会は25日、旧日本軍慰安婦被害者のキム・ヨンヒさんが今月24日午後10時頃に死去したと明らかにした。83才。

挺身隊対策協によれば1932年に大邱(テグ)で生まれたキムさんは5才の時にソウルに引っ越し、国民学校(小学校)在学中の1944年に日本人の校長によって選ばれ、わけも分からないまま日本に連れて行かれたという。

キムさんは下関を経て富山県のある軍需工場で9カ月間働き、青森県の慰安所に連れて行かれて7カ月間慰安婦生活をした。

キムさんは解放後、船に乗って韓国に戻ったが慰安所での衝撃が大きく、しばらく精神科治療を受けなければならなかった。キムさんはその後、結婚せずに家政婦として働いて暮らしてきた。

これに先立ち、今月11日に他の旧日本軍慰安婦被害者のキム・タルソンさん(90)とキム・ウェハンさん(84)が約20分差で遺恨の多い人生を終えた。1カ月間で旧日本軍の被害者女性が3人亡くなった。生涯、加害者である日本の反省と謝罪を粘り強く要求した政府登録慰安婦被害者238人のうち生存者はもう49人だ。

挺身隊対策協は公式フェイスブックで「6月だけで3名が天に召された」とし、「本当に時間がないと催促されているように思う」と話した。挺身隊対策協側は「1日もはやく被害者女性が苦痛を減らして余生を楽な気持ちで暮らせるように慰安婦問題の解決により大きな関心を持ってほしい」とした。

2015年06月26日09時14分
中央日報日本語版

https://web.archive.org/web/20150626212945/http://japanese.joins.com/article/328/202328.html

http://megalodon.jp/2015-0627-0634-01/japanese.joins.com/article/328/202328.html