元慰安婦 支援事業の現場(その1) 被害者本位を貫く

毎日新聞2016年6月5日 東京朝刊
http://mainichi.jp/articles/20160605/ddm/001/010/176000c

被害者に寄せる臼杵敬子(うすきけいこ)さん(68)の思いが届いたのかもしれない。

 「臼杵が来たよ、今来てるよ」。今年2月、韓国・ソウルの財閥系病院。日本のNPO法人の代表理事を務める臼杵さんが訪れると、元慰安婦(89)は一瞬目を開いて手を差し出した。臼杵さんが取った手には力がこもり、確かにおばあさんの意思が感じられた。

 翌日、このおばあさんは息を引き取った。

 元慰安婦への「償い」を目指し、日本がアジア女性基金を設立したのは1995年。基金が2007年に解散した後も、外務省は年720万〜1500万円のフォローアップ事業を続けている。韓国事業を担当する臼杵さんは、大衆薬や靴下を持参したりして年4回ほど巡回訪問してきた。

 臼杵さんに同行して昨年おばあさんに会った私も、死去の知らせに衝撃を受けた。孤独を紛らわすテレビの音が響く部屋で、臼杵さんと語らう彼女は元気そうに思えた。だが、昨年末の日韓両政府の合意の成果をみることはできなかった。

 韓国政府が認定した被害者238人のうち、生存者は42人まで減った。「財団からのお金を受け取りたいと、亡くなったおばあさんは話していたそうです。家族のことが心配なのです」と臼杵さんは言う。

 慰安婦問題が浮上してから四半世紀あまり。被害者本位を貫いてきた臼杵さんと共に合意後の現場を歩いた。<取材・文 岸俊光>

元慰安婦 支援事業の現場(その2止) 「ハッキリ会」臼杵さんの奮闘
http://mainichi.jp/articles/20160605/ddm/010/010/029000c

向き合う戦後責任
 今年4月25日、韓国のフォローアップ事業を担当するNPO法人のメンバーはワゴン車に94歳の元慰安婦を乗せ、ソウル郊外のスパ施設に向かった。風呂に入り、部屋着に着替えて広間でおばあさんらと車座になっていると、慰安婦問題をめぐる論争などないように思えてくる。

 慰安婦問題は冷戦後の日本が直面した最も困難な歴史問題と言える。戦後70年も押し詰まった昨年12月28日、韓国政府が設立する財団に日本政府が10億円程度を支出することで両政府が一致し、「最終的かつ不可逆的に解決」されることで合意するまでに、長い歳月が流れた。

 1991年12月、元慰安婦らが初めて日本政府を相手取って起こした戦後補償裁判。河野洋平官房長官談話の根拠とされた93年7月の元慰安婦聞き取り調査。97〜2002年に実施されたアジア女性基金による韓国向け「償い事業」。基金解散後の08年度から始まった日本のフォローアップ事業……。節目の現場には、いつも臼杵敬子(うすきけいこ)さん(68)の姿があった。

 慰安婦は戦争に行った多くの日本人が知る存在だった。だが、その歴史解釈は「性奴隷」か「売春婦」かの極論が対立し、なお決着をみていない。そのはざまで臼杵さんらが選んだのは、日本政府に補償を求める元慰安婦らの裁判を支援する一方、政府が設立したアジア女性基金にも協力するという難しい道だった。それは「被害者本位を貫く」という信念に基づく行動だったが、市民運動の側からは運動の分裂を招いたと批判され、政府からは疑いの目を向けられた。

 しかし、慰安婦問題に関わる政治家や官僚、記者が時の経過と共に交代していく中、臼杵さんほど支援の第一線で奮闘してきた人はほとんどいない。代表を務める市民団体の名称が、その思いをよく表している。「日本の戦後責任をハッキリさせる会」(略称・ハッキリ会)

 90年6月、臼杵さんはフリージャーナリストとして、韓国・太平洋戦争犠牲者遺族会(遺族会)が日本の戦後処理問題を問う釜山−ソウルの大行進を取材した。生死確認は戦後処理の基本となる。日本人は正確を期して70〜80年代にやり直されたのに、同じ日本兵だった韓国人の軍人・軍属は放置されたままだった。徴用された多くの人々も行方が知れない。

 「これでなぜ、『65年の日韓基本条約で解決済み』と言えるのか。戦争処理は戦後生まれにも責任がある。私たちの世代にハッキリさせようという思いでした」。半年後、東京・渋谷の事務所に机を一つ借りて、ハッキリ会がスタートした。

 主な活動は、旧日本軍の軍人・軍属や慰安婦だった韓国人と遺族35人が91年12月、日本政府に補償を求めて起こした遺族会裁判の支援である。今日まで行動を共にするルポライターの原田信一さん(71)と写真家の勝山泰佑(ひろすけ)さん(71)が合流した。

 遺族会裁判は、初めて自ら元慰安婦と名乗り出た金学順(キムハクスン)さん(97年、73歳で死去)らが、日本政府に補償を求めたことで、過去ではなく現実の問題として注目を集めた。だが、04年11月に最高裁で原告敗訴が確定し、司法の場で救済が図られることはなかった。

 臼杵さんが韓国にのめりこみ、慰安婦に関心を寄せたのは、大行進の取材より8年前にさかのぼる。女性誌としては異例の在日韓国・朝鮮人の記事を担当した後、76年に初めて韓国を訪れた。現在の朴槿恵(パククネ)大統領の父、朴正熙(パクチョンヒ)大統領の軍事政権下にあり、暗いイメージがあった。それでも友人の下宿に転がり込み、市井の人々にふれることで、むしろ韓国社会の明るさに引きつけられていった。

 「歴史的にも文化的にも、日本と本当に近い。この国の人を取材するのに私は通訳を介してでは満足できない」

 思いを募らせ、82年にソウルに語学留学し、その時の体験などを「現代の慰安婦たち」にまとめた。日本人男性による買春ツアーや植民地時代に受けた傷の叫び、米軍基地の街の女たち−−。韓国語の習得に励みつつ、知人が経営するスナックを手伝いながら体験した韓国社会の息遣いが、生き生きと伝わってくる。

 驚かされるのは、地元の女性誌が掲載した元慰安婦の手記を手掛かりに、雑誌の編集長に頼んで行方を捜した逸話だ。初版が出た後に臼杵さんは所在を突き止め、84年に面会した。韓国・大邱から当時のビルマに送られて戦後はベトナムに残り、ベトナム戦争の難民となって帰国した元慰安婦は、臼杵さんに思い出話を語ったという。

 「『日本の兵隊さんもかわいそうだった。東北の人だったけれど、自分のことを妹のようにかわいがってくれた』と言ってね。儒教の影響が強い韓国では、体を汚されるのは死んだようなもの。元慰安婦は決して表に出てこないと思っていました。外国暮らしが長い彼女は感覚が違っていたのかもしれません」。臼杵さんは手記を手に振り返った。

 慰安婦問題は90年代に顕在化した。90年6月に、参院予算委員会で労働省(当時)の局長が「民間業者が軍と共に連れ歩いていたような状況。実態調査はできかねる」と答弁して韓国側の反発を招いた。金学順さんが慰安婦だったと明かしたのは翌91年8月。臼杵さんが面会した元慰安婦は、その時すでに他界していた。

医療・福祉支援で成果
 戦後50年の95年、歴史認識の対立は頂点に達した感があった。「戦後50年国会決議」は、日本の対外政策や軍事行動の評価をめぐって混乱した。6月に衆院で可決したものの大量の欠席者が出て日本の責任が曖昧になり、参院への提出は見送られた。一方、8月には「侵略」「植民地支配」「お詫(わ)び」の文言を入れた村山富市首相談話が発表された。

 この年はハッキリ会にとっても転機となった。自民・社会・さきがけ3党連立の村山政権の下、軍の関与を認める河野談話を具体化する施策としてアジア女性基金が7月に発足し、ハッキリ会としてどう対応するかが問われたのである。

 河野談話の作成にあたり、日本政府は93年7月に元慰安婦から聞き取り調査を行った。これに協力した遺族会から相談され、臼杵さんもソウルの遺族会事務所で行われた調査を見守った経緯がある。

 アジア女性基金は「償い金」を国民の寄付で集める一方、政府に代わって首相のおわびの手紙を手渡し、政府が支出する医療・福祉事業に携わる組織だった。政府補償を主張する側は、「国の責任を免れるごまかしだ」と非難した。

 基金が95年8月15日付の全国紙に発表した呼びかけ文に、おおむね次のような一節がある。

 <慰安婦をつくりだしたのは過去の日本の国家です。しかし、日本という国は決して政府だけのものでなく、国民の一人一人が過去を引き継ぎ、現在を生き、未来を創っていくものでしょう>

 文章を考案した国際法学者の大沼保昭さん(70)は、基金の呼びかけ人・理事を務めた柱の一人である。サハリン残留朝鮮人の帰還運動などに取り組み、83年には「アジアにたいする戦後責任を考える会」をつくって、「戦後責任」の言葉と思想を定着させる先駆けとなった。

 考える会とハッキリ会。共に戦後責任を問い、かたやハッキリ会はそれを明確にしたようにも見える。会の名称が似たのは偶然だが、大沼さんと臼杵さんには確かに通じ合うものがある。

 ハッキリ会などの呼びかけで、「慰安婦110番」が92年1月に開設された。3日間にかかった235件の電話は、元兵士からが9割を占めた。嫌がらせは皆無に近く、軍の管理などについて、まじめに情報を提供してくれたという。

 「制度をつくったのが軍だとしても、国民の責任を考えないと。慰安所に並んで、制度を担ったのは兵隊ですから」。戦後責任に対する臼杵さんのこだわりは当事者の声に根差すものだった。

 国民も寄付し、政府も出資するとの政府の説明を受け、ハッキリ会はメンバーの原田さんを基金に送り込む決断をした。アジア女性基金を批判しつつ関与する−−。95年9月12日の会報は批判も覚悟し、基金に臨む方針を記している。

 <国家責任に基づいた被害当事者への政府拠出の実現。(中略)募金協力しながら「民間も出すのだから政府も出して当然」という迫り方を展開していく>

 一方、政府の側も当初はハッキリ会に好意的ではなかった。自治労国際局長として村山内閣を支えつつアジア女性基金に加わった中嶋滋(しげる)さん(71)は証言する。「臼杵さんは遺族会との人脈があるし、韓国語もできるから協力してもらいたいと思った。政府との交渉では、『何かあれば責任を取るか』とも言われました。実際は通訳以上の仕事をしたわけですが」

 基金の「償い事業」の中でハッキリ会が重視したのは、政府が支出する医療・福祉支援事業だ。事業の中身をよりよいものにして本人に直接渡すことに、中嶋さんと共に力を尽くした。政府予算による医療・福祉支援は、村山内閣当時の古川貞二郎官房副長官の知恵だった。五十嵐広三官房長官に迫られ、旧厚生省出身者として介護や医療に人道上なら出せる、と考えたのである。

 事業は韓国、台湾、フィリピン、オランダの被害者らを対象に行われた。その柱は、国民の寄付による200万円の「償い金」と、政府拠出による120万〜300万円の医療・福祉支援などから成る。医療・福祉はあくまで財・サービスとされ、基金から直接届けることはできず、当初は分割して、別団体を通す方法がとられた。「現金給付では政府補償と同じになる」と難色を示す国と激論し、現金300万円を直接送る方法に変更したのは基金事務局の頑張りと言える。

 「日韓の請求権問題が65年の日韓請求権協定で終わったことは明白だった。それを揺さぶり、実質的に超える中身をつくろうと試みた」と原田さんは語る。政府の河野談話検証は、韓国の元慰安婦61人に1人あたり計500万円の事業を実施と明記した。補償にぎりぎりまで近づいた医療・福祉支援は、ハッキリ会の到達点に見える。

 今年4月下旬、16年度最初のフォローアップ事業が実施され、精力的に動く臼杵さんに同行した。基金を2年後に解散し、アフターケアに対応する方針が示されたのは05年。臼杵さんらは07年にNPO法人をつくり、韓国の元慰安婦らの巡回訪問を続けている。

 スパ施設でリラックスし、広間で談笑する94歳のおばあさんは、カートを押して毎朝2時間の散歩を日課にしている。「昨年12月の日韓合意をどう受け止めましたか」。私が尋ねると、「良かったと思う」と短い答えが返ってきた。そして「次はいつ来るの」と、臼杵さんにせっついた。健康そうなこのおばあさんも、食が細く、日によって体調に差があり、1人暮らしは難しくなった。

 釜山に足を延ばし、女性運動家の話を聞いた後、翌日向かったのは、元慰安婦が集団で生活する社会福祉法人「ナヌムの家」だった。昨年5月に自宅を訪ねたおばあさんが入居していた。ベッドに横たわるおばあさんに、臼杵さんが話しかけ、紅を引くと、おばあさんは、かすかに笑ったように見えた。

 「一緒に旅行して顔のパック美容をしてあげると、ハルモニ(おばあさん)たちはすごく喜ぶ。それも臼杵さんのアイデアです。元慰安婦が四十何人いれば、その数だけ名前と生き方がある。国はそれをひとまとめにするけれど、臼杵さんのしていることは、そうではないんだということじゃないかな」。臼杵さんの行動を長年記録してきた、写真家の勝山さんの言葉が心に響いた。

 フォローアップ事業を通じて臼杵さんらは家族的な雰囲気をつくり、元慰安婦と時間を共有してきた。日韓合意を履行するため、韓国政府が設立する「和解と癒やし財団」(仮称)の具体的な姿はまだ明らかになっていないが、事業内容は日本の巡回訪問と似たものになるだろうと臼杵さんは考えている。

 昨年8月、臼杵さんは故郷の香川県で介護中だった母を亡くした。痛めた自身の腰が完治していないことも、あまり口にしない。「次は釜山を拠点に被害者を訪ねたい」。今月中旬、NPOチームは2回目の巡回訪問のため韓国に渡る。

慰安婦問題を巡る流れ
1990年12月 日本の戦後責任をハッキリさせる会が発足

  91年 8月 元慰安婦の金学順(キム・ハクスン)さんが初めて実名で告発

     12月 元慰安婦や元軍人・軍属、遺族らでつくる韓国の太平洋戦争犠牲者遺族会のメンバーが日本政府に補償を求め提訴

  93年 8月 河野洋平官房長官談話

  95年 6月 衆院が「戦後50年国会決議」を可決

      7月 アジア女性基金が発足

      8月 村山富市首相談話

  97年 1月 アジア女性基金が韓国の「償い事業」を開始(2002年5月、申請受け付け終了)

2004年11月 遺族会の戦後補償訴訟で最高裁が原告の上告棄却

  07年 3月 アジア女性基金が解散

  08年 4月 元慰安婦へのフォローアップ事業開始

  14年 6月 政府が河野談話の検証報告書を公表。談話継承を強調

  15年12月 韓国政府が設立する財団に、日本政府が10億円程度を拠出することで日韓両外相が一致。「最終的かつ不可逆的」な解決で合意

 ◆今回のストーリーの取材は

岸俊光(きし・としみつ)(論説室)

取材をする岸俊光論説委員
 1985年入社。東京本社学芸部長などを経て、2014年から論説委員兼オピニオングループ編集委員。大沼保昭・東大名誉教授との共編著に「慰安婦問題という問い」。昨年6〜7月、朝刊に「『償い』という問い」を連載した。今回は写真も担当した。