(慰安婦問題を考える)戦時の性暴力、どう裁かれた
2017年3月21日05時00分
慰安婦問題を考えるシリーズは今回、第2次世界大戦後に、米英などの連合国が敵国だった日本やドイツの戦争犯罪を裁いた法廷で、慰安所や性暴力の問題がどう扱われたかを振り返ります。戦時の性暴力に対する国際社会の認識がその後、どのように変わってきたかについても考えました。
■東京裁判、研究者に聞く 連合ログイン前の続き国軍捕虜への虐待問題、最も重視/朝鮮人や台湾人女性の被害扱われず
2011年2月、資料集「東京裁判――性暴力関係資料」(現代史料出版)が出版された。戦後に連合国が日本政府や軍の指導者らを裁いた極東国際軍事裁判(東京裁判)の膨大な証拠書類から、日本軍の性暴力に関連した供述書など40点を収録。研究は内海愛子・恵泉女学園大名誉教授の問題意識から始まり、宇田川幸大(うだがわこうた)・一橋大特任講師ら3人が参加した。
――研究のきっかけは。
内海 1979年、研究者らが「東京裁判研究会」をつくり、東京裁判に提出された証拠書類や判決書などを調べ分析しました。私も参加しましたが、性暴力関係について証拠資料を体系的に調べた研究者はいなかった。私を含め問題意識が希薄だったのです。90年代に元慰安婦の証言を聞き、衝撃を受けました。「戦争裁判が戦時中の性暴力をどう裁いていたのか、資料をまとめなければ」と思いました。
2000年に東京で市民団体が「女性国際戦犯法廷」を開き、元慰安婦の女性らが各国から来日して被害を訴えました。それまでに資料をまとめたいと思いましたが、間に合いませんでした。その後も作業を続けましたが、メンバーが入れ替わり、中断もあって、今回の資料集出版で「宿題」を果たすまでに約10年かかりました。
――資料をどう分析しましたか。
宇田川 4人の研究者が分担し、裁判速記録や証拠書類を読み込み、強姦(ごうかん)や強制売春などの記述を拾い出しました。東京裁判の参加国は欧米が中心。法廷では中国やフィリピンなどの住民に対する残虐行為の一部が取り上げられましたが、審理全体で最も重視されたのは連合国軍捕虜への虐待の問題でした。
内海 性暴力に関しては、元日本陸軍幹部が「忌まわしい犯罪の発生を防ぐため、軍紀風紀の違反者は厳罰にする一方、慰安隊の設備には十分注意した」と述べた宣誓供述書を出しています。「慰安隊」を犯罪予防の手段に位置づけた供述です。元陸軍省法務局長の供述書には風紀取り締まり強化の証拠として42年に陸軍刑法を改正し、強姦罪を重罰化したと書かれています。
これに対し、連合国で構成される検察側は法廷で「非常に多くの陵辱事件があったことが動機となって陸軍刑法が改定されたのではないか」と尋問。元法務局長は「戦地に強姦の罪が相当あり、厳重に処分すべきことを要求された」と答えました(資料〈1〉)。重罰化の背景として、戦地で強姦が多発していたことを認めたと言えます。
――東京裁判資料には性暴力の記述が多く見つかるのですか。
宇田川 いいえ、むしろ逆です。東京裁判の判決では、中国の桂林の事件についてこう書かれています。「桂林を占領している間、日本軍は強姦と掠奪(りゃくだつ)のようなあらゆる種類の残虐行為を犯した。工場を設立するという口実で、かれらは女工を募集した。こうして募集された婦女子に、日本軍隊のために醜業を強制した」(資料〈2〉。「醜業」とは売春のこと)
しかし判決でこうした記述は例外的です。裁判で性暴力の問題が詳しく扱われた例は少ない。女性の裁判官が一人もいないという問題もありました。性暴力の問題は軽視され、被害の実態が見えなくされた側面があると思います。
――BC級戦犯裁判で慰安所が問題となった代表例にはオランダ領東インド(現インドネシア)のスマラン事件などがありますね。戦後にオランダがジャワ島のバタビア(現ジャカルタ)で開いた法廷で、日本軍将校や業者らが死刑や禁錮刑などを宣告されています(資料〈3〉)。
内海 スマランで日本軍が「敵国人」として抑留していたオランダ人女性を連行し慰安所を開いた事件です。事件を知った軍司令部の命令により2カ月で閉鎖されました。戦争裁判では連合国の捕虜や民間人への虐待を訴追した例が多く、総じてアジア住民被害の裁判は限られていました。スマラン事件は、被害者が連合国のオランダ人だったから裁判になったのです。
まったく取り上げられなかったのが、朝鮮人や台湾人女性の被害です。朝鮮や台湾の植民地支配は、戦争裁判で審理されなかったのです。
――戦時の性暴力に対する認識はその後、どのように変化したのでしょうか。
内海 戦時の性暴力が女性の人権を侵害する重大な戦争犯罪であり「人道に対する罪」であることが世界的に明確になったのは90年代以降のことです。日本の慰安婦問題が顕在化し、元慰安婦の女性が被害を訴え、補償や謝罪を求めたのが一つのきっかけでした。歴史研究でも、被害当事者の視点を踏まえた調査・研究が進められるようになりました。
■インドネシアで証言調査 日本の研究者、30人から聞き取り
慰安婦をめぐる学術調査が、インドネシアで続いている。
鈴木隆史・桃山学院大講師らは、太平洋戦争中に日本海軍が軍政を敷いたインドネシアのスラウェシ島(旧セレベス)南部で2013年から調査。「日本軍の性の相手をさせられた」と訴える女性を訪ね、約30人から聞き取りをした。
日本軍占領時に、そうした施設を目撃したという住民らの話も聞いた。「工場からの帰り道に兵隊につかまった」など、本人の意思に反して慰安婦にさせられたとの証言が相次いだ。性暴力を受けたという現場は、竹とヤシの葉でつくられた長屋や飛行場近くの地下壕(ごう)などだった。
現地では、性暴力の被害を「恥」とみなす意識が強く、女性たちは沈黙を余儀なくされたという。元慰安婦のチンダさん(84)は初来日した昨年の集会で「真実を明らかにし、正義を実現してほしい」と訴えた。
被害を訴える女性はさらに見つかり、今年も調査は続く。鈴木氏は「彼女たちの声を、生きているうちに記録することが私たちの使命」と話す。
日本の敗戦後、現地の日本軍政機関「セレベス民政部」の海軍司政官が作成した「南部セレベス売淫施設(慰安所)調書」(資料〈4〉)には、民政部監督下の23施設とそれ以外の7施設の記録があり、計約280人の女性がいたとみられる。
鈴木氏らの現地調査では数カ所が、調書にある地名と一致した。吉見義明・中央大教授は「スラウェシ島南部の慰安所は軍直営か事実上の直営だったことがうかがえる。末端の部隊が現地の判断で設け、民政部が把握していなかったケースもありうる」と指摘する。
同島北部に上陸した陸軍部隊の戦友会報(資料〈5〉)にも、「地区の婦女子の安全を守るために部隊では直営の慰安所(娼館)を開設していた事があった」との記述がある。
■ドイツで自国の「加害」研究 「再発防ぐため、社会全体の問題に」
ドイツのハンブルク社会研究所研究員、レギーナ・ミュールホイザーさん(45)は2010年、第2次世界大戦中のドイツ兵による性暴力についての研究を発表し、旧ソ連の国々で女性を強姦し、軍専用の売春施設を設けたことを示す資料を著書(資料〈6〉)で紹介した。
――戦時性暴力の研究を始めたきっかけは。
1994年に3カ月間、研究のため韓国に滞在し、元慰安婦の女性たちが公の場で自発的に話していることに驚きました。「体験を伝えなければ」という使命感に満ちていました。
性暴力被害者が声を上げるのは困難ですが、韓国の女性たちの姿は、戦時下の性暴力が共同体や社会全体の出来事であり、経験を語ることは恥でも罪でもないと示してくれました。
――自国の「加害」を研究する理由は。
以前は、ソ連兵から性暴力を受けたドイツ人女性ら被害者に焦点をあてた研究をしていました。2000年に東京で、元日本兵が加害の証言をするのを見て、祖父の世代のドイツ兵はどうだったのかを考えるようになりました。
――戦時性暴力は戦後、どう裁かれましたか。
連合国がドイツを裁いたニュルンベルク裁判で、ソ連が提出して採用された証拠文書「USSR51」には「ドイツ軍司令部があるホテルに将校用売春施設を開設し、何百人もの少女と女性が連れ込まれた」との証言があります。ソ連の外務人民委員が証言し、ドイツ軍の「野蛮さ」を立証する意図で提出されましたが、事実関係を調査しようという動きは出なかった。性暴力が「戦争の副作用」の一つとして軽視されていたからだと思います。
――ドイツ軍の資料からも、ソ連の占領地域で軍専用の売春施設を設けた実態を明らかにしました。
ドイツ兵が各地で軍専用の売春施設を設置し、スモレンスク(現ロシア)など少なくとも15カ所に16施設があったことが、軍の資料などから判明しました。軍は兵士の性欲を管理しなければならないという考え方があったとみられます。強制性の程度や賃金の有無など、実態の多くは未解明です。
――自国の過去を発掘するのはなぜですか。
戦時下の性暴力を防ぐためです。どの国、どの時代でも起こりうることだからこそ、社会問題にしなければなりません。「他国でもやっていたことなのに、なぜ自国ばかり反省しなければならないのか」という声は世界中にある。そのことこそ、社会全体の問題として考えるべきではないでしょうか。
■「人道に対する罪」90年代に浸透
冷戦が終結した1990年代、強姦や強制売春など戦時の性暴力が国を超えた「人道に対する罪」だとの意識が世界に広がった。
韓国在住の元慰安婦として、金学順(キムハクスン)さんが初めて名乗り出たのは91年。93年には、ウィーンの国連世界人権会議関連のシンポジウムで元慰安婦が証言に立った。同じころ、旧ユーゴスラビアでボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が起き、性暴力被害が問題になった。
戦時下の女性の問題を研究するロンドン大経済政治学院のクリスティーン・チンキン名誉教授(国際法)は「過去にも同様の犯罪は起きていたが、全く追及されなかった。90年代になり、ようやく国際社会が重大性に気づいた」と振り返る。
ボスニア紛争時や、ルワンダ内戦下での行為を裁く国際法廷が相次いで設置され、98年にローマで採択された国際刑事裁判所(ICC)の設置条約には、戦時下の性暴力は「人道に対する罪」と明記された。
「戦時性暴力は国を超えた犯罪との認識が一気に広がり、窓が次々と開くように制度が発展した」とチンキン名誉教授は振り返る。
戦時下の性暴力は今も続く。国連は、昨年7月に南スーダンであった大規模な戦闘の際に217人が強姦の被害にあったとの調査結果を今年1月に報告。2月には、安保理がこうした性暴力をふくむ市民への攻撃について「深刻な懸念」を表明した。
■記事で参照した資料と、関係箇所の抜粋
〈1〉元陸軍省法務局長の宣誓供述書「日本陸軍刑法には従来強姦罪の規定なく一般刑法に準拠して居り親告罪でありましたが斯くては軍の風紀取締上不十分であるために昭和17年……陸軍刑法の改正をなし強姦罪を非親告罪として其の刑罰をも加重せしめた」=「極東国際軍事裁判速記録第5巻」(雄松堂書店、1968年)
〈2〉「極東国際軍事裁判速記録第10巻」(同、1968年)
〈3〉「被告は1944年2月26日ごろ、スマラン市内で35人ほどの女性を慰安所4カ所に輸送することを命じた」「2月29日、女性ら5人に対し、不特定多数の日本兵との自発的な性交を拒否し続けるならば殺されるか、親族が報復を受けるだろうと脅迫し売春を強制した」=新美隆解説「オランダ女性慰安婦強制事件に関するバタビア臨時軍法会議判決」(日本の戦争責任資料センター「季刊戦争責任研究」3号、1994年)
〈4〉「南部セレベス売淫施設(慰安所)調書」〈「蘭(オランダ)軍々法会議検察官命」により1946年6月20日付で作成〉=女性のためのアジア平和国民基金編「政府調査『従軍慰安婦』関係資料集成第4巻」(龍渓書舎、1998年)
〈5〉セレベス会「戦後50年を迎えて 青春を生きたセレベス」(1996年)
〈6〉レギーナ・ミュールホイザー、姫岡とし子監訳「戦場の性 独ソ戦下のドイツ兵と女性たち」(岩波書店、2015年)
◇慰安婦問題を考える企画記事では、以下のテーマで特集記事を掲載してきました。
<2014年12月28~30日> 識者インタビュー
<15年6月2日> 識者座談会
<7月2日> 慰安所をめぐる公文書
<11月18日> 米国での慰安婦像・碑
<12月29日> 日韓合意までの経緯
<16年3月18日> 韓国での慰安婦と挺身(ていしん)隊の混同
<5月17日> 韓国人元慰安婦の軌跡
<11月30日> 植民地支配下の慰安婦動員
◇この特集は、編集委員・北野隆一、編集委員・中野晃、守真弓が担当しました。
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