[仮訳] ソ・オクチャ インタビュー 「韓国疲れ」 — 2015年7月19日

[仮訳] ソ・オクチャ インタビュー 「韓国疲れ」

“アベ寄って行った後米尋常でなくて…米議員慰安婦本与えても拒絶”

書屋者ワシントン挺身隊対策委顧問

来る30日はアメリカ下院で慰安婦決議案が通過されて8周年になる日だ。 安倍晋三(安倍晋三)日本総理が慰安婦動員の強制性を否認して慰安婦問題は韓日修交50周年をむかえた今年韓国・日本間核心イシューになっているけれど、米下院ではすでに8年前慰安婦決議案を全員一致で通過させることによって日本側に完全な解決を促したのだ。

2007年7月30日慰安婦決議案が通過されたところにはレーン エバンズ(1951~2014・民主・イリノイ)議員の役割が大きかった。 彼は1999年日本軍の慰安婦強制動員事実を米議会議事録に初めて記録を残した後2001年から5番にかけて決議案を提出した。 エバンズ議員はパーキンソン病闘病生活中慰安婦決議案を相次いで提出したし結局2007年7月30日下院本会議で全員一致で慰安婦決議案が通過された。 書屋者(米バージニア州、コロンビア カレッジ教授)ワシントン挺身隊対策委員会顧問はエバンズ議員の恋人であり友達として慰安婦決議案の下院通過過程を現場で見守った人物だ。 ソ顧問はエバンズ議員が去る2014年11月亡くなった後、世の中に知らされなかった慰安婦決議案通過前後の生き生きした話を‘あなたの声になって’(セチャン メディア間)とは本に吐き出した。 去る2日京畿(キョンギ)広州(クァンジュ)‘ナムヌの家’で開かれた出版記念会で彼に会って、エバンズ議員と慰安婦問題にからまった話を聞いた。

―エバンズ議員の努力で米下院で慰安婦決議案が通過されてすでに8年になる。 韓国と特別な縁がないエバンズ議員が慰安婦問題に関心を持つことになった契機は何であると考えるのか。

“エバンズが1999年下院議事録に慰安婦問題に対して初めての記録を残したが、彼は当時‘私たちは助けが必要なこれらを助けるべきである義務があります。 本人自ら立ち上がることはできないこれらのために立ち上がらなければならなくて、自身の声を出すことはできないこれらのために声を出さなければならない義務があります’と話して慰安婦問題を提起した。 それに先立ちエバンズと親しいウィリアムlupineスキー下院議員は1998年慰安婦問題に対しては言及をしはしなかったが日本が2次世界大戦被害者に謝って補償しなければならないという内容の米下院126号決議案を発議したことがある。 エバンズはlupineスキー議員の補佐官である中国系ジェイスン タイと親しかったが、彼がエバンズに慰安婦問題に対するインスピレーションを吹き込んだようだ。 エバンズはこれらと似合って韓国の歴史に対して知るようになったし慰安婦問題に対しても深い関心を持つことになった。”

―エバンズ議員は1999年米議会に慰安婦関連初めての記録を残した後議員職引退をする時まで引き続き決議案を出したが。

“エバンズは合計5番決議案を出した。 5回目決議案を出す時彼は2006年ヘンリー・ハイド(1924~2007・共和・イリノイ)下院外交委院長に特別電話をしたがそのおかげで慰安婦決議案が下院外交委を通過することができた。 そうみたいな会議が開けないまま会期が終わって惜しくも廃棄された。”

エバンズ議員は民主党、ハイド外交委院長は共和党所属で党が違ったが、二人はイリノイ州出身という共通分母がある。 エバンズ議員はハイド委員長に電話をかけた時次の通り頼んだと‘あなたの声になって’に記録されている。

“私は持病によってまもなく議会を離れる人で、あなたもまもなくやはり議会を離れなければならない境遇なのに、私の最後の懇請を聞き入れなさい。 日本軍慰安婦問題を外交委員会で通過させれば有難いです。”

ハイド委員長はこの電話後慰安婦決議案支持で背を向けたし決議案は下院外交委を通過した。 しかし2006年末共和党主導の下院でジョン ペイノ当時共和党院内総務(ヒョン下院議長)は慰安婦決議案を感服できないと考えたし,この決議案を本会議に上程しなかった。 慰安婦決議案は再び2007年下院に上程(想定)されてついに7月30日下院全体会議を通過した。

米下院慰安婦決議案通過当時駐米大使であったイ・テシク延世(ヨンセ)大アンダーウッド国際大レイニ客員教授は去る2日ナムヌの家で開かれた出版記念会に参加してエバンズ議員とハイド委員長に対してこのように回顧した。

“私が駐米大使で仕事をした2006年米ワシントンは慰安婦決議案問題に関心が傾いたが、韓国ではダグラス・マッカーサー将軍の銅像き損論議で騒々しかった時期です。 私が大使で赴任してハイド委員長に要人を行ったところ仁川(インチョン)、自由(チャユ)公園にあるマッカーサー銅像の話を取り出したのです。 ハイド委員長は青年時期マッカーサー将軍を遂行して2次大戦に参戦した方なのに、韓国でマッカーサー銅像き損動きが日時ノ・ムヒョン当時大統領に手紙を書いてマッカーサー銅像を傷つけるよりはアメリカに回してくれと言いましたよ。 私がその方に‘マッカーサー銅像を私たちが3交代で24時間守っていると心配されるな。 韓米関係を助けてくれ’でしました。 その方はその年夏訪韓したし盧大統領も会いました。 その方は慰安婦決議案を下院外交委で通過させるのに決定的役割をしましたよ。 慰安婦決議案が下院外交委を通過した後2006年11月政府が授ける修交勲章光化粧を持ってその方事務室に訪ねて行って首にかけて差し上げました。 その時その方は車椅子に座って“サンキュー、サンキュー、サンキュー. この有り難みを絶対に忘れない(Thank you,thank you,thank you. I will never forget this)”としました。 その後その方は2007年11月亡くなりました。 エバンズ議員をはじめとしてハイド委員長などの労苦があったので慰安婦決議案が下院を通過できました。 私たちが忘れてはいけない方は忘れてはいけません。”

―エバンズ議員はそんなに慰安婦決議案のために努力したが通過を見られないまま引退したが。

“エバンズはパーキンソン病が深くなって故郷であるイリノイ州ロクアイルランドに発ったが、彼の後に続いてマイク本田(民主・カリフォルニア)下院議員が主導的役割をした。 彼が2007年1月31日決議案を出したし以後慰安婦聴聞会を経て7月30日下院全体会議を通過したのだ。 慰安婦聴聞会にはイ・ヨンス、キム・クンジャおばあさんが出てきて証言をしたが聴聞会に先立ちエバンズが私に‘あなたが誇らしい’としながら激励電話をすることもした。 聴聞会後レセプション席には当時セヌリ党議員でワシントンを訪問中だったパク・クネ大統領も参加した思い出す。”

―エバンズ議員と本田議員間に特別な縁があるのか。

“二人は民主党全党大会で会って親しくなった。 当時初当選だった本田議員はとても活動的で精力的だった。 私に‘玉姿、私を活用して(慰安婦決議案)ことを推進してください’という話も私にした。 彼は州議員である時カリフォルニア州議会で全員一致で慰安婦決議案を通過させた人物だ。 日系3才である彼は日本人たちの批判を受け取ってその仕事をした。”

エバンズ議員は1996年発病したパーキンソン病が悪化するとすぐに2007年1月議定(議会活動)生活をたたんだし、慰安婦決議案推進任務は本田議員にまかせた。 本田議員は2006年12月第109会期米議会が閉会する日、公式に慰安婦決議案たいまつを買収すると宣言した。 翌年1月民主・共和両党共同で慰安婦決議案を発議した。 引き続き1ヶ月後慰安婦聴聞会が下院で開かれたしソ顧問と慰安婦被害者であるイ・ヨンスおばあさんなどが証言者に出た。 以後慰安婦決議案は6月下院外交委を通過したのに続き7月30日下院本会議を通過した。 当時トム レントス下院議員は“日本政府が日本軍慰安婦問題に対して公式謝らないで過ぎ去った歴史に対して責任を負わないならばこれは洗えないことで恥かしいこと”と叱責した。 本田議員などの演説が続いた後下院本会議場で全員一致で通過した。

ソ顧問はエバンズ議員が始めた慰安婦決議案が下院で通過した瞬間をこのように記憶した。

“議員はエバンズに栄誉を回すのを忘れなかった。 エバンズ名前が議事堂に広がるたびにほとばしる涙を抑制できなかった。 議会本会議場に入るためにハンドバッグと持ち物を全部保管所にまかせて手ぶらに行かなければならなかったので涙をふくハンカチさえなくて顔は涙でごちゃ混ぜになって汚された。 議会本会議場の2階ギャラリーに座って会議場を見守るとどこかでエバンズがにっこり笑って現れるようで胸がしびれた。”

―エバンズ議員とはどのように会ったか。

“私が神学博士学位論文を書いた頃である1999年ワシントン挺身隊対策委員会事務総長を引き受けることになった。 当時エバンズは私たちの委員会にきて慰安婦問題関連演説をしたがその日以後意気投合になった。”

エバンズ議員とソ顧問は‘自由と独立’を追求して結婚しないまま生きてきた専門職シングルなのに慰安婦被害者のために共に戦うという大義で一つになった。 以後ソ顧問は2014年エバンズ議員が亡くなる時までエバンズ議員の最も近い友達であり、恋人だった。

ソ顧問は以後ワシントン政界のシンデレラになった。 米下院重鎮であるエバンズ議員が年末ホワイトハウスの送年パーティーに参加する時にはガールフレンド者のように同行、ビル・クリントン大統領夫婦、ジョージWブッシュ大統領夫婦と会った。 エバンズ議員と懇意な民主党下院議員はもちろん共和党下院議員とも交流して議会内外の知人たちも多くなった。

エバンズ議員のパーキンソン病が深くなってソ顧問は不便な彼のからだを洗われて服を着せる役割で運転手役割までもやり遂げた。 2007年エバンズ議員が引退後故郷であるイリノイ州に降りて行った後では彼の兄弟らと看病人ために時々接近が阻止される状況を体験して難しい時期を送った。 このためにソ顧問はエバンズ議員死亡後彼の最後を一緒にできなかったという罪悪感に苦しめられたりもしたと打ち明けた。

“昨年11月エバンズが死亡した後後悔をたくさんした。 この世の中に私のようなバカがないと考えた。 私は中学生の時から信仰を持って生きてきた人だ。 エバンズが病気を勝ち抜いて立ち上がることができた。 そのような信頼で祈祷を捧げて生きてきた。 それがなかったとすれば私が8年を耐えられなかっただろう。 しかし昨年11月エバンズ死亡消息を聞いて生きなければならない希望を失った。 人生の最後の砦が崩れ落ちたようにすべてのことが揺れた。”

―‘あなたの声になって’を見ればエバンズ議員を2008年から2014年までまともに会えなかったといったが。

“初期にはそれなりに通話をしたが病気が深くなって彼の兄弟らと看病人などが法定後見人の資格を前に出して私が接近することを防いだ。”

―なぜそんなことが広がったと見るのか。

“おそらく経済的利害関係のためそうだと考えるが、私がアジア人という人種的理由も敷かれたようだ。 友達がそうしたよ私がアメリカ女だったら彼らがそのようにできなかったことだと。”

―策には一生独身を守ったエバンズ議員が晩年に求婚をしたことが明らかになるのになぜ応じなかったか。

“初めに求婚を受けて迷ったがそのような渦中に状況が変わって法定後見人が結婚を反対した。 運命の車輪にまきこまれて入る感じだった。”

―運命の車輪を突破できない計算なのに。

“法定後見人が私を徹底的に遮断したし、エバンズを監視した。 私を‘ゴールド ディガー(gold digger・お金を狙って男に接近する女性)’という式で追い詰めることもした。”

―エバンズ議員のパーキンソン病発病原因に対してはどのように見るか。 エバンズ家にパーキンソン病が家族歴があるか。

“彼は次男なのに10台の時お父さんと化学肥料をばらまいて畑で仕事をしたという。 兄と弟は家であってエバンズとお父さんだけ化学肥料をばらまいて仕事をしたために二人がパーキンソン病を病んだと聞いた。 当時アメリカでは化学肥料がパーキンソン病と関連があるという話があった。”

―いつ発病したのか。

“46才の時あるパレードに参加して手をあげたが上がらなくてとても驚いたといったよ。 以後病院でパキスン判定を受けた。 その後病魔と戦って10年間さらに下院議員職を遂行した。 彼はいくら痛くても表情に出さなかったし周辺の人々をうれしくする雰囲気メーカーの役割が上手だった。 海兵隊出身なのでそうなのか全てのものを肯定的に対した。”

―1999年お二人様が初めて会った頃にすでにエバンズ議員がパーキンソン病がたくさん進行された状態だったはずなのに。

“すでに進行された時だったが薬をちょっと強く食べれば良くなったりした。 患者が病気で死ぬのでなくたいてい薬で死ぬという話がある。 私が彼に会った頃脳に関連した薬を1粒ずつ食べて2粒で服用量を増やした。 それを2006年頃には看病人が6粒ずつ餌だよ。 ところでエバンズは薬を水で飲まないでダイエット コーラで食べた。 胃腸(偽装)がどれくらい傷ついたのだろうか、上(胃)がどれくらい痛かっただろうか考えただけでも胸が痛い。 特にエバンズが2006年ソウルを訪問したが飛行機に乗って長時間旅行するのが無理であったようだ。 脳のマヒ、からだ筋肉のマヒを耐え抜くことができなかった。 その訪問後さらに悪化した。”

―エバンズ議員は生前に韓国を2番きたといったのに。

“元気だった時ちょっときたことがあってそして2006年訪問した。 当時ナムヌの家を訪問して慰安婦被害者おばあさんらと会ったのが記憶に残る。”

―‘あなたの声になって’が出版されることによって米下院慰安婦決議案に対するエバンズ議員の情熱が韓国で新しく照明されるようだ。 本はどのように書くことになったか。

“昨年11月エバンズが亡くなって何もすることができなかったので1ヶ月後から本を書き始めた。 本来原稿(原告)は2007年決議案通過後整理しておいたことなのに、その後エバンズが亡くなる時までの記憶を追加して新しく使ったのだ。”

去る2日出版記念会でソ顧問はこのように話した。

“私は専門作家でもなくて、本を出したこともありません。 2014年エバンズ議員を送った後‘あなたの声になって’を使い始めました。 その人の魂を感じて本を書きました。 脳が麻痺していく状態でその方がしたがった話が何かを考えて胸から出る声、魂から出る声を集めてした者した者少なかったです。 毎日毎日崩れていく身体の中で自身の意見もまともに表現できない状況をそばで見守ってもう私がその方の声になるべきだとの考えで本を出したのです。”

―策を出すことによってもうエバンズ議員との縁を総整理した計算なのに、今後計画は。

“周囲でエバンズ議員記念館を作るのがどうかといって考え中だ。 まず遺品などを集めてワシントン挺身隊対策委事務室にちっぽけにさせる計画だ。 当分ワシントンで仕事をして慰安婦でないだけでなく北朝鮮人権事を成して韓米関係を繋いてくれる役割をしようとする。”

―北朝鮮人権とは、もう領域を慰安婦問題で北脱出者問題まで広げるということなのか。

“スザンヌ・ショルティ ディペンスフォーラム財団代表とともに北朝鮮人権に対する事を成している。 前回ショルティが連邦下院議員に出馬した時には私が選挙対策委員長で仕事をした。”

―ショルティは共和党所属で、ソ顧問は民主党支持者であるはずなのにそれが可能だったか。

“そうでなくても私がショルティに話した。 私は民主党地元の人なのにもう民主党側に顔も入れないと冗談を言った(笑い). 党籍を超越してショルティが北朝鮮人権のために戦う姿、そして北脱出者のために仕事をする姿が良かった。”

―今年安倍総理のワシントン議会演説以後米日関係が蜜月期に入り込んだという話が多いが、この頃米議会で慰安婦問題に対する関心はどうか。

“そうでなくても21日キル・ジョンウ セヌリ党議員招請で‘韓日歴史イシューに対するアメリカ政界の認識と争点’を主題で講義をするのにアメリカが変わっている。 ワシントン挺身隊対策委で慰安婦おばあさんの口述記録集である‘聞こえるのですか(Can You Hear Me)’英文版を議会各事務室にまわしたところ米議員が意外に受けないとしてびっくりした。”

―策を寄贈することなのに断ったという話なのか。

“そうだ。 挺身隊対策委役員が伝達しようとしたところ‘ノーセンス(No Thanks)’といったよ。 去る5~6月初めのことだ。 アメリカ議会人々の心理に変化が多いようだ。 バラク・オバマ大統領が安倍総理と手を握って共に出て行くところに私たちが慰安婦に集中する必要があるかという気流ができるようだ。 私たちがそのようなアメリカの新しいトレンドに合わせて新しい対応法を探さなければならない。 中国は中国自らの利害関係のために新しい試みをして日本はアメリカの各大学に多くの基金をばらまく方式で影響力を広げようとするのに私たちは対外広報や外国大学支援面でたくさん不足する。
―オバマ行政府側はどうなのか.

“国務部の気流も変化するようだ。 ウェンディ シャーマン国務部政務次官の日本編向け過去の歴史発言がそのまま出てきたのではない。 自分ひとりで軽く話せるのが絶対ない。 永らく国務部実務者に会ってよく分かるのにこれらもこの頃は韓国疲労症(Korea Fatigue)を話したよ。 彼らがそんなに話す時私も驚いた。”

インタビュー=イ・ミスク国際部長
“아베 다녀간 후 美심상찮아… 美의원들 위안부 책 줘도 거절”

서옥자 워싱턴 정신대 대책委 고문

오는 30일은 미국 하원에서 위안부 결의안이 통과된 지 8주년이 되는 날이다. 아베 신조(安倍晋三) 일본 총리가 위안부 동원의 강제성을 부인하면서 위안부 문제는 한일수교 50주년을 맞은 올해 한·일간 핵심이슈가 되고 있지만, 미 하원에서는 이미 8년 전 위안부 결의안을 만장일치로 통과시킴으로써 일본 측에 완전한 해결을 촉구한 것이다.

2007년 7월 30일 위안부 결의안이 통과된 데에는 레인 에번스(1951∼2014·민주·일리노이) 의원의 역할이 컸다. 그는 1999년 일본군의 위안부 강제동원 사실을 미 의회 의사록에 처음으로 기록을 남긴 뒤 2001년부터 5번에 걸쳐 결의안을 제출했다. 에번스 의원은 파킨슨병 투병생활 중 위안부 결의안을 잇달아 제출했고 결국 2007년 7월 30일 하원 본회의에서 만장일치로 위안부 결의안이 통과됐다. 서옥자(미 버지니아주 컬럼비아 칼리지 교수) 워싱턴 정신대 대책위원회 고문은 에번스 의원의 연인이자 친구로서 위안부 결의안의 하원 통과과정을 현장에서 지켜본 인물이다. 서 고문은 에번스 의원이 지난 2014년 11월 세상을 떠난 뒤, 세상에 알려지지 않았던 위안부 결의안 통과 전후의 생생한 얘기를 ‘그대의 목소리가 되어’(세창 미디어 간)란 책에 쏟아냈다. 지난 2일 경기 광주 ‘나눔의 집’에서 열린 출판기념회에서 그를 만나, 에번스 의원과 위안부 문제에 얽힌 얘기를 들었다.

―에번스 의원의 노력으로 미 하원에서 위안부 결의안이 통과된 지 벌써 8년이 된다. 한국과 특별한 인연이 없는 에번스 의원이 위안부 문제에 관심을 갖게 된 계기는 무엇이라고 생각하는가.

“에번스가 1999년 하원 의사록에 위안부 문제에 대해 첫 기록을 남겼는데, 그는 당시 ‘우리는 도움이 필요한 이들을 도와야 할 의무가 있습니다. 본인 스스로 일어설 수 없는 이들을 위해 일어서야 하고, 자신의 목소리를 낼 수 없는 이들을 위해 소리를 내야 할 의무가 있습니다’라고 말하면서 위안부 문제를 제기했다. 그에 앞서 에번스와 친한 윌리엄 루핀스키 하원의원은 1998년 위안부 문제에 대해선 언급을 하지는 않았지만 일본이 2차세계대전 피해자들에게 사과하고 보상해야 한다는 내용의 미 하원 126호 결의안을 발의한 적이 있다. 에번스는 루핀스키 의원의 보좌관인 중국계 제이슨 타이와 친했는데, 그가 에번스에게 위안부 문제에 대한 영감을 불어넣어 준 것 같다. 에번스는 이들과 어울리면서 한국의 역사에 대해 알게 됐고 위안부 문제에 대해서도 깊은 관심을 갖게 됐다.”

―에번스 의원은 1999년 미 의회에 위안부 관련 첫 기록을 남긴 뒤 의원직 은퇴를 할 때까지 계속해서 결의안을 냈는데.

“에번스는 총 5번 결의안을 냈다. 5번째 결의안을 낼 때 그는 2006년 헨리 하이드(1924∼2007·공화·일리노이) 하원 외교위원장에게 특별전화를 했는데 그 덕분에 위안부결의안이 하원 외교위를 통과할 수 있었다. 그러나 본회의가 열리지 못한 채 회기가 끝나면서 아깝게도 폐기됐다.”

에번스 의원은 민주당, 하이드 외교위원장은 공화당 소속으로 당이 달랐지만, 두 사람은 일리노이주 출신이라는 공통분모가 있다. 에번스 의원은 하이드 위원장에게 전화를 걸었을 때 다음과 같이 당부했다고 ‘그대의 목소리가 되어’에 기록되어 있다.

“나는 지병으로 인하여 얼마 안 있으면 의회를 떠날 사람이고, 당신도 얼마 안 있으면 역시 의회를 떠나야 하는 처지인데, 나의 마지막 간청을 들어주시오. 일본군 위안부 문제를 외교위원회에서 통과시켜주시면 고맙겠소.”

하이드 위원장은 이 전화 후 위안부 결의안 지지로 돌아섰고 결의안은 하원 외교위를 통과했다. 그러나 2006년 말 공화당 주도의 하원에서 존 베이너 당시 공화당 원내총무(현 하원의장)는 위안부 결의안을 탐탁지 않게 생각했고, 이 결의안을 본회의에 상정하지 않았다. 위안부 결의안은 다시 2007년 하원에 상정되어 마침내 7월 30일 하원 전체회의를 통과했다.

미 하원 위안부 결의안 통과 당시 주미대사였던 이태식 연세대 언더우드국제대 레이니 석좌교수는 지난 2일 나눔의 집에서 열린 출판기념회에 참석해 에번스 의원과 하이드 위원장에 대해 이렇게 회고했다.

“제가 주미대사로 일하던 2006년 미 워싱턴은 위안부 결의안 문제에 관심이 쏠렸지만, 한국에서는 더글러스 맥아더 장군 동상 훼손 논란으로 시끄러웠던 시기입니다. 제가 대사로 부임해 하이드 위원장에게 인사를 갔더니 인천 자유공원에 있는 맥아더 동상 얘기를 꺼내더군요. 하이드 위원장은 청년 시절 맥아더 장군을 수행해 2차대전에 참전했던 분인데, 한국에서 맥아더 동상 훼손 움직임이 일자 노무현 당시 대통령에게 편지를 써서 맥아더 동상을 훼손하느니 미국으로 돌려달라고 했지요. 내가 그분께 ‘맥아더 동상을 우리가 3교대로 24시간 지키고 있으니 걱정하시지 마라. 한미관계를 도와달라’고 했습니다. 그분은 그해 여름 방한했고 노 대통령도 만났습니다. 그분은 위안부 결의안을 하원 외교위에서 통과시켜주는 데 결정적 역할을 했지요. 위안부 결의안이 하원 외교위를 통과한 뒤 2006년 11월 정부가 수여하는 수교훈장 광화장을 갖고 그분 사무실에 찾아가 목에 걸어드렸습니다. 그때 그분은 휠체어에 앉아 “생큐, 생큐, 생큐. 이 고마움을 절대로 잊지 않겠다(Thank you, thank you, thank you. I will never forget this)”고 했습니다. 그 후 그분은 2007년 11월 세상을 떠났습니다. 에번스 의원을 비롯해 하이드 위원장 등의 노고가 있었기에 위안부 결의안이 하원을 통과할 수 있었습니다. 우리가 잊지 말아야 할 분들은 잊지 말아야 합니다.”

―에번스 의원은 그렇게 위안부 결의안을 위해 노력했지만 통과를 보지 못한 채 은퇴했는데.

“에번스는 파킨슨병이 깊어져 고향인 일리노이주 록아일랜드로 떠났지만, 그의 뒤를 이어 마이크 혼다(민주·캘리포니아) 하원의원이 주도적 역할을 했다. 그가 2007년 1월 31일 결의안을 냈고 이후 위안부 청문회를 거쳐 7월 30일 하원 전체회의를 통과한 것이다. 위안부 청문회에는 이용수, 김군자 할머니가 나와 증언을 했는데 청문회에 앞서 에번스가 내게 ‘당신이 자랑스럽다’면서 격려 전화를 해주기도 했다. 청문회 후 리셉션 자리엔 당시 새누리당의원으로 워싱턴을 방문 중이던 박근혜 대통령도 참석했던 기억이 난다.”

―에번스 의원과 혼다 의원 간에 특별한 인연이 있는가.

“두 사람은 민주당 전당대회에서 만나서 친해졌다. 당시 초선이었던 혼다 의원은 아주 활동적이고 정력적이었다. 내게 ‘옥자, 나를 활용해서 (위안부 결의안) 일을 추진하세요’는 말도 내게 했다. 그는 주의원일 때 캘리포니아 주의회에서 만장일치로 위안부 결의안을 통과시켰던 인물이다. 일본계 3세인 그는 일본인들의 비판을 받아가면서 그 일을 했다.”

에번스 의원은 1996년 발병한 파킨슨병이 악화되자 2007년 1월 의정 생활을 접었고, 위안부 결의안 추진 임무는 혼다 의원에게 맡겨졌다. 혼다 의원은 2006년 12월 제109회기 미 의회가 폐회하는 날, 공식으로 위안부 결의안 횃불을 인수한다고 선언했다. 이듬해 1월 민주·공화 양당 공동으로 위안부 결의안을 발의했다. 이어 한 달 후 위안부 청문회가 하원에서 열렸고 서 고문과 위안부 피해자인 이용수 할머니 등이 증언자로 나섰다. 이후 위안부 결의안은 6월 하원 외교위를 통과한 데 이어 7월 30일 하원 본회의를 통과했다. 당시 톰 랜토스 하원의원은 “일본 정부가 일본군 위안부 문제에 대해 공식 사과하지 않고 지나간 역사에 대해 책임을 지지 않는다면 이는 씻을 수 없는 일이고 수치스러운 일”이라고 질타했다. 혼다 의원 등의 연설이 이어진 뒤 하원 본회의장에서 만장일치로 통과됐다.

서 고문은 에번스 의원이 시작한 위안부 결의안이 하원에서 통과되던 순간을 이렇게 기억했다.

“의원들은 에번스에게 영예를 돌리는 것을 잊지 않았다. 에번스 이름이 의사당에 퍼질 때마다 솟구치는 눈물을 억제할 수 없었다. 의회 본회의장에 들어가기 위해 핸드백과 소지품을 모두 보관소에 맡겨두고 빈손으로 가야 했기에 눈물을 닦을 손수건조차 없어 얼굴은 눈물로 뒤범벅되어 얼룩졌다. 의회 본회의장의 2층 갤러리에 앉아 회의장을 지켜보니 어디에선가 에번스가 싱긋 웃으며 나타날 것 같아 가슴이 저렸다.”

―에번스 의원과는 어떻게 만났나.

“내가 신학박사 학위 논문을 쓰던 무렵인 1999년 워싱턴 정신대 대책위원회 사무총장을 맡게 됐다. 당시 에번스는 우리 위원회에 와서 위안부 문제 관련 연설을 했는데 그날 이후 의기투합이 됐다.”

에번스 의원과 서 고문은 ‘자유와 독립’을 추구하며 결혼하지 않은 채 살아온 전문직 싱글인데 위안부 피해자를 위해 함께 싸운다는 대의로 하나가 됐다. 이후 서 고문은 2014년 에번스 의원이 세상을 떠날 때까지 에번스 의원의 가장 가까운 친구이자, 연인이었다.

서 고문은 이후 워싱턴 정계의 신데렐라가 됐다. 미 하원 중진인 에번스 의원이 연말 백악관의 송년파티에 참석할 때엔 여자 친구자격으로 동행, 빌 클린턴 대통령 부부, 조지 W 부시 대통령 부부와 만났다. 에번스 의원과 절친한 민주당 하원의원들은 물론 공화당 하원의원들과도 교류하며 의회 안팎의 지인들도 많아졌다.

에번스 의원의 파킨슨병이 깊어지면서 서 고문은 불편한 그의 몸을 씻기고 옷을 입히는 역할에서 운전기사 노릇까지도 해냈다. 2007년 에번스 의원이 은퇴 후 고향인 일리노이주로 내려간 뒤로는 그의 형제들과 간병인들 때문에 때때로 접근이 저지되는 상황을 겪으며 어려운 시기를 보냈다. 이 때문에 서 고문은 에번스 의원 별세 후 그의 마지막을 함께 하지 못했다는 죄책감에 시달리기도 했다고 털어놨다.

“지난해 11월 에번스가 별세한 뒤 후회를 많이 했다. 이 세상에 나 같은 바보가 없다는 생각을 했다. 저는 중학생 때부터 신앙을 갖고 살아온 사람이다. 에번스가 병을 이겨내고 일어설 줄 알았다. 그런 믿음으로 기도를 하며 살아왔다. 그것이 없었다면 내가 8년을 못 견뎠을 것이다. 그러나 지난해 11월 에번스 별세 소식을 듣고 살아야 할 희망을 잃었다. 삶의 마지막 보루가 무너져 내린듯 모든 게 흔들렸다.”

―‘그대의 목소리가 되어’를 보면 에번스 의원을 2008년부터 2014년까지 제대로 못 만났다고 했는데.

“초기엔 그나마 통화를 했는데 병이 깊어지면서 그의 형제들과 간병인 등이 법정후견인의 자격을 내세우며 내가 접근하는 것을 막았다.”

―왜 그런 일이 벌어졌다고 보는가.

“아마도 경제적 이해관계 때문일 것 같다고 생각하는데, 내가 아시아인이라는 인종적 이유도 깔린 것 같다. 친구들이 그러더라 내가 미국 여자였으면 그들이 그렇게 하지 못했을 것이라고.”

―책에는 평생 독신을 고수했던 에번스 의원이 말년에 청혼을 한 것으로 나타나는데 왜 응하지 않았나.

“처음에 청혼을 받고 망설였는데 그러는 와중에 상황이 바뀌면서 법정후견인이 결혼을 반대했다. 운명의 수레바퀴에 휘말려 들어가는 느낌이었다.”

―운명의 수레바퀴를 돌파하지 못한 셈인데.

“법정후견인들이 저를 철저히 차단했고, 에번스를 감시했다. 나를 ‘골드 디거(gold digger·돈을 노리고 남자에게 접근하는 여성)’라는 식으로 몰아붙이기도 했다.”

―에번스 의원의 파킨슨병 발병 원인에 대해선 어떻게 보나. 에번스 집안에 파킨슨병이 가족력이 있나.

“그는 둘째 아들인데 10대 때 아버지와 화학비료를 뿌리며 밭에서 일했다고 한다. 형과 남동생은 집에서 있고 에번스와 아버지만 화학비료를 뿌리며 일한 탓에 두 사람이 파킨슨병을 앓았다고 들었다. 당시 미국에서는 화학비료가 파킨슨병과 관련이 있다는 얘기가 있었다.”

―언제 발병했는가.

“46세 때 한 퍼레이드에 참석해 손을 들었는데 올라가지 않아 너무 놀랐다고 하더라. 이후 병원에서 파킨슨 판정을 받았다. 그 후 병마와 싸우면서 10년간 더 하원의원직을 수행했다. 그는 아무리 아파도 내색하지 않았고 주변 사람들을 기쁘게 해주는 분위기 메이커 역할을 잘했다. 해병대 출신이어서 그런지 모든 것을 긍정적으로 대했다.”

―1999년 두 분이 처음 만나던 무렵에 이미 에번스 의원이 파킨슨병이 많이 진행된 상태였을 텐데.

“이미 진행됐을 때였지만 약을 좀 세게 먹으면 좋아지곤 했다. 환자들이 병으로 죽는 게 아니라 대개 약으로 죽는다는 말이 있다. 내가 그를 만나던 무렵 뇌에 관련된 약을 1알씩 먹다가 2알로 복용량을 늘렸다. 그것을 2006년쯤엔 간병인이 6알씩 먹이더라. 그런데 에번스는 약을 물로 먹지 않고 다이어트 콜라로 먹었다. 위장이 얼마나 상했을까, 위가 얼마나 아팠을까 생각만 해도 가슴이 아프다. 특히 에번스가 2006년 서울을 방문했는데 비행기를 타고 장시간 여행하는 게 무리였던 것 같다. 뇌의 마비, 몸 근육의 마비를 견뎌내지 못했다. 그 방문 후 더 악화됐다.”

―에번스 의원은 생전에 한국을 2번 왔다고 하던데.

“건강했을 때 잠깐 왔던 적이 있고 그리고 2006년 방문했다. 당시 나눔의 집을 방문해 위안부 피해자 할머니들과 만난 것이 기억에 남는다.”

―‘그대의 목소리가 되어’가 출간됨으로써 미 하원 위안부결의안에 대한 에번스 의원의 열정이 한국에서 새롭게 조명될 것 같다. 책은 어떻게 쓰게 됐나.

“지난해 11월 에번스가 세상을 떠나고 나서 아무것도 하지 못했는데 한 달 후부터 책을 쓰기 시작했다. 원래 원고는 2007년 결의안통과 후 정리해놓았던 것인데, 그 이후 에번스가 세상을 떠날 때까지의 기억을 추가해 새로 쓴 것이다.”

지난 2일 출판기념회에서 서 고문은 이렇게 얘기했다.

“저는 전문 작가도 아니고, 책을 낸 적도 없습니다. 2014년 에번스 의원을 떠나보낸 뒤 ‘그대의 목소리가 되어’를 쓰기 시작했습니다. 그 사람의 영혼을 느끼며 책을 썼습니다. 뇌가 마비되어가는 상태에서 그분이 하고 싶어 했던 얘기가 뭘까를 생각하며 가슴에서 나오는 소리, 영혼에서 나오는 소리를 모아 한 자 한 자 적었습니다. 하루하루 허물어져 가는 육신 속에서 자신의 의견도 제대로 표현하지 못하는 상황을 옆에서 지켜보면서 이제 내가 그분의 목소리가 돼야겠다는 생각에서 책을 낸 것입니다.”

―책을 펴냄으로써 이제 에번스 의원과의 인연을 총 정리한 셈인데, 앞으로 계획은.

“주위에서 에번스 의원 기념관을 만드는 게 어떠냐고 해서 생각 중이다. 우선 유품 등을 모아 워싱턴 정신대 대책위 사무실에 자그마하게 만들 계획이다. 당분간 워싱턴에서 일하면서 위안부 일뿐 아니라 북한 인권 일도 하면서 한·미관계를 이어주는 역할을 하려고 한다.”

―북한 인권이라니, 이제 영역을 위안부 문제에서 탈북자 문제로까지 넓히는 것인가.

“수잰 숄티 디펜스포럼 재단 대표와 함께 북한 인권에 대한 일도 하고 있다. 지난번 숄티가 연방하원의원에 출마했을 때엔 내가 선거대책위원장으로 일했다.”

―숄티는 공화당 소속이고, 서 고문은 민주당 지지자일 텐데 그게 가능했나.

“그렇지 않아도 내가 숄티에게 말했다. 나는 민주당 본토박이인데 이제 민주당 쪽에 얼굴도 못 들겠다고 농담을 했다(웃음). 당적을 초월해 숄티가 북한 인권을 위해 싸우는 모습, 그리고 탈북자들을 위해 일하는 모습이 좋았다.”

―올해 아베 총리의 워싱턴 의회 연설 이후 미·일관계가 밀월기로 접어들었다는 얘기가 많은데, 요즘 미 의회에서 위안부 문제에 대한 관심은 어떠한가.

“그렇지 않아도 21일 길정우 새누리당 의원 초청으로 ‘한일 역사이슈에 대한 미국 정계의 인식과 쟁점’을 주제로 강의를 하는데 미국이 바뀌고 있다. 워싱턴 정신대 대책위에서 위안부 할머니들의 구술기록집인 ‘들리나요(Can You Hear Me)’ 영문판을 의회 각 사무실에 돌렸더니 미 의원들이 의외로 받지 않겠다고 해 깜짝 놀랐다.”

―책을 기증하는 것인데도 거절했다는 얘기인가.

“그렇다. 정신대 대책위 임원들이 전달하려 했더니 ‘노 생스(No Thanks)’라고 하더라. 지난 5∼6월 초의 일이다. 미국 의회 인사들의 심리에 변화가 많은 것 같다. 버락 오바마 대통령이 아베 총리와 손잡고 함께 나가는 마당에 우리가 위안부에 집중할 필요가 있느냐 하는 기류가 생기는 것 같다. 우리가 그런 미국의 새로운 트렌드에 맞춰 새로운 대응법을 찾아야 한다. 중국은 중국 자체의 이해관계 때문에 새로운 시도를 하고 일본은 미국의 각 대학에 많은 기금을 뿌리는 방식으로 영향력을 넓히려 하는데 우리는 대외홍보나 외국 대학 지원면에서 많이 부족하다.

―오바마 행정부 쪽은 어떤가.

“국무부의 기류도 변화하는 것 같다. 웬디 셔먼 국무부 정무차관의 일본편향 과거사 발언이 그냥 나온 게 아니다. 자기 혼자 가볍게 말할 수 있는 게 절대 아니다. 오랫동안 국무부 실무자들을 만나와서 잘 아는데 이들도 요즘에는 한국피로증(Korea Fatigue)을 얘기하더라. 그들이 그렇게 얘기할 때 나도 놀랐다.”

2015.7.17

https://web.archive.org/web/20150718170803/http://www.munhwa.com/news/view.html?no=2015071701032909041001

http://megalodon.jp/2015-0719-0559-37/www.munhwa.com/news/view.html?no=2015071701032909041001

日本企業・天皇も訴える — 2015年7月17日

日本企業・天皇も訴える

「元慰安婦」が日本政府や本紙を提訴 米サンフランシスコ連邦地裁

【ロサンゼルス=中村将】韓国の元慰安婦女性2人が、第2次世界大戦中に「性奴隷」の扱いを受けたことは人権侵害にあたるなどとして、日本政府や日本企業に2千万ドル(約26億円)の損害賠償を求める訴えを米サンフランシスコの連邦地裁に起こした。

連邦裁判所の訴訟書類公開システム「PACER(Public Access to Court Electronic Records)」で閲覧した訴状によると、訴訟対象には、昭和天皇や天皇陛下、岸信介元首相、安倍晋三首相、戦時中に旧日本軍と関係のあった日本企業などのほか、産経新聞も含まれている。訴状の提出は今月13日付。裁判所は今後、審理の可否や日程などを検討していくとみられる。

2015.7.17 06:00 産経

https://web.archive.org/web/20150716225450/http://www.sankei.com/world/news/150717/wor1507170002-n1.html

ヘリテージ財団「米韓日各大使の対話」 佐々江案 古森 義久 — 2015年7月16日

ヘリテージ財団「米韓日各大使の対話」 佐々江案 古森 義久

韓国が蒸し返したい幻の「佐々江提案」とは
大幅に譲歩して韓国の要求を受け入れようとした民主党政権

日韓関係改善の障害となり続けている慰安婦問題についての日本側からの「幻の提案」が、7月8日、米国の首都ワシントンで浮上した。
この提案は2012年の日本の民主党政権時代、当時の外務次官だった佐々江賢一郎氏(現駐米大使)が韓国政府に提示した大幅な譲歩案である。もしその線で日韓の合意が成立していれば、日本側に、河野談話にも等しい歴史上の悔恨を残したことであろう。まさに日本の民主党政権の謝罪外交を象徴する提案でもあった。だが、韓国側には、なおこの提案が復活することへの期待が残っているようなのだ。

ワシントンの大手研究機関「ヘリテージ財団」は7月8日、「米韓日各大使の対話」と題するシンポジウムを開いた。米国のサン・キム前駐韓大使、韓国の安豪栄駐米大使、日本の佐々江賢一郎駐米大使の3人が、米韓日関係や北東アジア情勢について討論や質疑応答をするという集まりだった。司会を務めたのは同財団上級研究員のブルース・クリングナー氏である。

このシンポジウムで、クリングナー氏が聴衆から質問を集めて読み上げるセクションがあった。その中でこんな質問が読み上げられた。慰安婦問題での「佐々江提案」に関する内容だった。

「2012年3月、日韓政府間の対話で、当時の佐々江外務次官が韓国政府外交通商部第1次官の安氏に慰安婦問題についての『佐々江提案』を提示しましたが、その提案を佐々江大使は今も支持しているのでしょうか。もしそうでなければ、どんな考えを持っているのでしょうか」
2012年3月というのは日本の民主党政権時代である。首相は野田佳彦氏だった。その時の外務次官は佐々江氏、韓国側の外交部次官は安氏で、いずれも現在はワシントン駐在大使となっている。

日韓両国間の対立の原因となっている慰安婦問題に関して、韓国側は実はこの佐々江提案に微妙な期待を寄せている。だからこそ第三国の首都ワシントンでの会合においても、そうした質問が出たのだろう。

佐々江提案とはなんだったのか。韓国と日本の各種報道などでの内容はすでに明らかとなっている。つまり、日本の野田政権からの提案として、当時の李明博政権に対し(1)慰安婦問題に関して日本の首相が公式に謝罪する(2)日本政府が元慰安婦に人道主義名目の賠償をする(3)駐韓日本大使が元慰安婦たちを訪問して首相の謝罪文を読み、賠償金を渡す――という内容だった。

この佐々江提案で、日本側は政府レベルの法的賠償については1965年の日韓条約で解決済みという立場こそ表明したものの、「人道主義での賠償」に応じ、しかも首相や駐韓日本大使が元慰安婦たちへ再度謝罪することを申し出た。韓国側の要求への大幅な譲歩だった。

韓国側は「日本軍が組織的に20万の女性を強制連行して性奴隷にした」という年来の虚構の主張を変えていないが、佐々江提案はその点への反論もなかった。だから、たとえ「人道主義名目」でも賠償に応じれば、その後、韓国側から日本の法的責任を追及して賠償や謝罪の請求がどっと出てくることは明白だった。

しかも佐々江氏は当時、韓国側の安次官らから「歴史の真実から顔を背けない本当の勇気と知恵が必要だ」などと説教じみた言辞をぶつけられ、なんの反論もしないままだった。慰安婦の強制連行説が虚構であることにはまったく触れもしなかったのだ。
しかし幸いなことに、2012年3月の時点では、韓国政府は「人道主義名目の賠償では不十分だ」などという理由で佐々江提案にすぐ応じることはなかった。やがて日本では民主党政権が倒れ、野田首相も退陣してしまった。

その後に登場した自民党の安倍晋三政権は、もちろんこの佐々江提案を継承するようなことはなかった。だから結果として日本側では佐々江提案は実体のない幻相となってしまったのだ。

ところが韓国側では決してそうではないことが、このワシントンのシンポジウムでの質問で示されたのである。佐々江大使にとっては、明らかにまともに取り合いたくはない質問だった。そんな心情をにじませるような口調で、佐々江大使は以下のように答えた。

「まず、私は当時(慰安婦問題について)安次官に対して公式の提案をしたことはない。私たちは友人同士として非公式な議論をしようとしただけだ。その非公式な議論の内容を明らかにする立場に私はない」

「当時、慰安婦問題は深刻な課題であり、私たちはその課題に真剣に取り組んだ。私たちは今もその問題への対処を続けており、なんらかの結果を生み出すことを私は望んでいる」
「将来の(慰安婦問題での)日韓合意がどんなものになるにせよ、それが両国関係の改善につながることを私は確信している。しかし過去の議論がどんなやりとりだったかなどを今語ることは有益ではない。より重要なのは、これからどんな合意ができるかだ。私は日韓両国政府の合意成立への能力に対しては基本的に楽観的である」

以上のように非常に慎重な、しかし具体的な中身に乏しい、文字どおりの外交的な回答だった。現在の佐々江大使がかつての自らの提案を支持してはおらず、その提案について語りたがらないことも明白である。同大使が仕える安倍政権がまったく支持しない提案なのだから当然であろう。

だが、そんな幻の佐々江提案が、3年後の今ワシントンで瞬間的にせよ甦ってしまった。この出来事は、日本に次のような事実を突きつける。第1に、日本の民主党政権が、慰安婦問題で韓国に対して将来の大きな禍根や国益の損失をもたらすような譲歩案を提示していたことである。第2に、韓国側にはその佐々江提案を一種の言質にとって日本に対する外交武器として利用する動きが今もなお存在することである。

日本側としては、幻の提案はあくまで幻のままに葬り去るべきなのは言うまでもない。

https://web.archive.org/web/20150715011610/http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/44296

https://web.archive.org/web/20150715142516/http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/44296?page=2

https://web.archive.org/web/20150715142516/http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/44296?page=3

https://web.archive.org/web/20150715142516/http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/44296?page=4

2015.7.15

ヤン・チンジャ 日本の知識層で誤った主張が有力に — 2015年7月14日

ヤン・チンジャ 日本の知識層で誤った主張が有力に

「軍慰安婦で原則固守する挺対協に問題」日本の知識層で誤った主張が有力に

2015.07.13

「戦後70年」…歴史NGO世界大会

日本では、最近右派を超えて知識人の間でまで、「慰安婦」と関連して韓国の女性団体の原理・原則的な主張を問題視する誤った主張が徐々に浸透していると指摘されだした。戦後70年を迎え、韓日間の歴史問題の解決に向けた議論で進展を得るためには、韓国政府のより積極的な努力が必要だと専門家たちは口をそろえた。
「東アジアの平和のための歴史NGOフォーラム」と高麗大学アジア問題研究所は、今月10日から12日まで、ソウル・城北(ソンブク)区の高麗大学仁村記念館で「戦後70年の世界と東アジアの平和:市民社会の参加と役割」というテーマで第6回歴史NGO世界大会を開催した。

11日午前のメインイベントである韓日市民団体大討論会で、首相所属の対日抗争期強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者等支援委員会(以下委員会)のチョン・ヘギョン調査1課長は「東アジアの平和構築の前提として、事実の確認がまず必要だ」と強調した。 2005年委員会の真相調査が開始されてから、合計175万人分の強制動員被害者のリストを電算化したが、2008年以降、1年または6カ月単位の期間限定の期間延長や業務制限(真相調査業務の中断)などが重なり、活動の持続性を期待するのは難しかったと話した。チョン課長は「真相究明の問題とともに、被害国間の共同対応や連帯がますます緩んでいるが、このような状況に至った最大の責任は、韓国政府にある」とし「被害者や国の真相究明の意志が弱まっている中、日本は原爆被害を前面に出して、国際的に“被害者のイメージ”を確立することに成功した」と説明した。

梁澄子(ヤン・ジンジャ)日本軍「慰安婦」問題解決全国行動共同代表は、日本で韓国の女性団体の活動への非難がかなり深刻な状態に達したと説明した。彼女は「“慰安婦”問題を解決しようとする、いわゆる日本の『自由主義派』の間でも韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)の主張が問題の解決の障害になっているという観念が浸透している」と憂慮した。日本政府の事実認定と公式謝罪、賠償が先行しなければならないが、朴槿恵(パク・クネ)政権の頑固な姿勢、韓国社会のナショナリズム拡散に対する批判的視点と相まって、知識人の中でも挺対協が被害者の意思を無視したまま、アジア女性基金を拒否するなど、原則的な姿勢で問題の解決の妨げになっていると、根拠もなく非難する人々が増えているということだ。

一方、前日の10日午後、国際シンポジウムで基調発表者を務めたチェ・サンヨン元駐日大使は「習近平国家主席の『中国民族復興の夢』や安倍晋三首相の『積極的平和主義』、朴槿恵大統領の『北東アジア平和構想』の狭間で、東アジアの平和のためのビジョンが見えない」とし「韓中日3カ国首脳会談の議長国として、韓国が今年中には必ず3カ国首脳会談を開催しなければならない」と述べた。

ハンギョレ日本語版

http://megalodon.jp/2015-0714-1949-52/japan.hani.co.kr/arti/culture/21314.html

https://web.archive.org/web/20150714001053/http://japan.hani.co.kr/arti/culture/21314.html

[raw] ミュンヘン水曜デモ 2015 — 2015年7月13日

[raw] ミュンヘン水曜デモ 2015

“위안부문제 사죄” 폭우도 막지못한 뮌헨 수요시위
[희망나비 2015 유럽평화기행] 제5신

독일 뮌헨의 신시청사 앞 마리엔 광장. 주변에 노천카페가 즐비하고 곳곳에서 무명 예술가들의 즉흥공연이 벌어지는 광장은 늘 사람들로 붐빕니다. 매시 정각이면 음악이 울리며 인형들이 춤을 추는 시계탑도 관광객들의 발길을 붙드는 볼거리입니다.
베네룩스3국을 거쳐 독일로 향한 희망나비 유럽평화기행단은 지난 8일 이 곳에서 일본군 ‘위안부’ 문제 해결을 촉구하는 수요시위를 열었습니다. 이번 여정의 첫 수요시위를 열었던 파리는 ‘위안부’ 피해 할머니들이 세 차례 수요시위를 진행한 경험이 있지만, 뮌헨은 이번이 처음이어서 준비 과정부터 어려움이 많았습니다. 우선 독일은 집회신고 절차가 아주 까다롭습니다. 뮌헨에 주소지를 갖고 있는 거주자가 집회신고를 내야 하고 집회 끝까지 자리를 지켜야 합니다. 수소문 끝에 ‘세월호를 기억하는 뮌헨행동’에서 활동하는 교민께서 도움을 주었고, 현장에 나온 경찰관들과의 협의도 잘 조율해 주었습니다.

시위 전날 우리는 캠핑장 주인에게 허락을 받아 캠핑장 입구 공터에서 플래시몹과 캠페인 준비로 하루 반나절을 보냈습니다. 현지인 및 관광객들과 함께 평화를 염원하는 그림과 글귀들을 채워 넣을 대형 걸개그림 준비팀은 플라스틱 병을 잘라 물감통을 마련하고 나비부직포, 목공용 풀 등을 꼼꼼히 챙겼습니다. 현장에서 낭독할 성명서와 발언 내용 번역을 담당한 단원들은 거의 뜬 눈으로 밤을 지샜습니다. 프랑스에선 섭씨 40도를 오르내리는 폭염에 시달렸는데 이번엔 비 소식이 걱정거리였습니다. 저녁 무렵 거센 바람이 불기 시작하더니 새벽부터 폭우가 쏟아졌습니다. 천지를 울리는 천둥번개와 텐트를 사정없이 때려대는 장대비 탓에 혹여 시위를 못하게 되지 않을까 걱정하며 모두가 밤잠을 설쳤습니다.

전차를 타고 마리엔 광장으로 이동할 땐 다행히 그쳤던 비가 집회신고를 낸 오전 10시가 되자 다시 찾아 들었습니다. 우왕좌왕하고 있는 희망나비들을 향해 김형준 평화기행단장이 외쳤습니다. “비가 오고 있습니다. 비가 얼마나 올지, 혹시 그칠지 우린 아무도 모릅니다. 우리가 할 수 있는 최선을 다합시다. 스스로를, 서로를 믿고 파이팅 합시다!”

경찰관들은 하늘을 가리키며 “진짜 할 거냐”고 물었습니다. 우리는 방긋 웃음으로 답하고는 힘차게 평화 캠페인을 시작했습니다. 시계탑 인형춤을 보기 위해 몰렸던 사람들이 하나 둘 우리 쪽으로 다가와 일본군 ‘위안부’ 문제에 대한 설명을 듣고는 기꺼이 서명을 해 주거나 대형 걸개그림 작업에 동참했습니다.

오전 11시. 우리는 수요시위를 여는 노래 ‘바위처럼’을 부르며 뮌헨 한복판에서 첫 수요시위를 시작했습니다. 촬영을 담당했던 친구는 쏟아지는 빗줄기에 개의치 않고 즐겁고 당차게 율동을 하는 단원들 모습이 마치 하나의 바위처럼 보였다고 합니다.

멀리 일본에서 날아와 파리 수요시위에 동참했던 ‘일본군 위안부문제 해결을 위한 간사이네트워크’의 오쿠다 가츠히로 공동대표가 이번 시위에도 함께했습니다. 마이크를 잡은 오쿠다 대표는 힘주어 말했습니다. “현재 일본정부는 과거 일본이 저지른 전쟁범죄를 인정하기는커녕 부정하려는 흐름이 강해지고 있습니다. 아베 정권은 극우세력의 눈치를 보며 교활하게 평화헌법의 내용을 자신들의 입맛에 맞게 수정하려 하고, 영향력이 큰 언론들을 대상으로 로비를 하며 일본군 ‘위안부’문제에 대한 왜곡을 일삼고 있습니다.”

단원들은 손에 들고 있던 피해 할머니들 사진을 적시는 빗물을 연신 닦아내면서 가슴이 뭉클했습니다. 닦아도 닦아도 다시 내리치는 빗물이 마치 할머니들이 평생 흘렸을 피눈물처럼 느껴졌기 때문입니다. 수요시위가 열리기 이틀 전, 또 한 분의 피해 할머니가 가슴 속 한을 풀지 못한 채 눈을 감았습니다. 올해만 벌써 일곱 분의 할머니들이 세상을 떠났습니다. 이제 48명뿐인 생존 피해 할머니들을 생각하며 우리는 더 크게 외쳤습니다. “일본 정부는 일본군 ‘위안부’피해자들에게 공식 사죄하고 법적으로 배상하라!”

궂은 날씨 탓에 몸은 힘들었지만 우리의 마음은 더 단단해졌습니다. 그 빗속에서도 우리의 주장에 귀를 기울이고 흔쾌히 펜을 들어 세계 1억인 서명운동에 동참해 준 사람들을 만나는 동안 감동의 순간들이 이어졌습니다. 한 어르신은 “이미 굳어가고 있는 유럽사회에서 이런 인권과 정의의 외침을 들려줘서 고맙다. 여러분의 활동이 인류의 미래다”라고 말했습니다. 한 중국계 캐나다인은 “중국과 다른 아시아 지역에도 일본군 위안부 문제가 있는데 이렇게 활동하는 건 한국 학생들밖에 보지 못했다”면서 “정말 용기 있는 젊은이들”이라고 치켜세웠습니다. “이런 활동이 중국에도 많이 알려져 같이 했으면 좋겠다”는 바람도 전했습니다. 자신의 할아버지가 2차대전 당시 일본군 해군장교였다는 한 분은 우리에게 “미안하다”며 돈을 건네기도 했습니다. 그는 돈을 사양하고 대신 내민 서명용지에 이름을 꾹꾹 눌러 적었고 주변에 많이 알려달라는 우리의 요청에 고개를 끄덕였습니다.

또래 젊은이들의 호응도 이어졌습니다. 평화 캠페인을 지켜보던 독일 대학생은 “감동했다”면서 뒤이어 진행한 수요시위에 동참해 맨 앞줄을 지켰습니다. 여행 중이라는 한국인 대학생은 초콜릿과 음료수를 사다 안기며 응원해 주었습니다. 다른 한국인 관광객들도 자신의 점퍼를 벗어 시위 현장을 촬영 중인 카메라를 덮어주거나 단원들에게 우산을 씌워주었습니다. 쏟아지는 폭우 속에서 정말 많은 것을 느끼고 생각하고 배울 수 있었습니다. 이날의 경험이 남은 평화기행을 더 당당하게 이어가는 힘이 될 것입니다.

희망나비 유럽평화기행단

korea times 2015.7.10

https://web.archive.org/web/20150712215213/http://www.hankookilbo.com/v/5ac736fa45ca4ee28e91012ccc945230

http://megalodon.jp/2015-0711-0541-05/www.hankookilbo.com/v/5ac736fa45ca4ee28e91012ccc945230

日系人inブロードウェイ「日本人として心が痛んだ」 — 2015年7月11日

日系人inブロードウェイ「日本人として心が痛んだ」

Comfort Women: A New Musical について

今わたしは、Comfort Women: A New Musical という

オフブロードウェーのショーのに携わっています。

今日はそのことについて書いてみたいと思います。

I have been working on a new Off Broadway musical called Comfort Women: A New Musical.

http://www.comfortwomenmusical.com

私の役は、Malsoon Lee という13歳の女の子。

この作品に携わると決まって、慰安婦について調べていた時は

日本人として心が痛んだし、今も韓国と日本の間でこのとについて

もめている事実にすごく疑問をもった。

My charactor is a 13 years old Korean girl named, Malsoon Lee. When I got cast in this project, I started to learn about comfort women. I was very shocked about it and felt gulity as a Japanese. I also got very comfused that Korean government and Japanese government are still fighting each other for those issues. WWII was ended about 70 years ago. Look what war did. What war created are full of hatred and saddness.

今わたしはこの作品に携わるにあたって、観てくださる方々に

戦争中はこんなことが起こった、起こりうる、そして今だって

世界では戦争をしている国があって、一番の被害者は弱い立場の人達

だと言うことに気付いてもらえたらいいと思っています。

As a part of this project, I hope the audience notice this kind of tragedy happened and would happen during the war. Even now, some countries are doing war. The victims are alsways innocent people, like childen.

このお話に出てくる女の子達も、今の私達と同じように

家族が居て、友達が居て、夢があって、何にも悪いことなんてしていないのに

戦争の被害に巻き込まれてしまった。

The girls in this musical are same as us.They have family, friends, and DREAMS. They had so much ahead of them and did nothing wrong.They are victims of WAR.

今日本で、日本が戦争出来るように憲法を変えようとする動きがあります。

わたしはアメリカに来て5年目になりますが、日本が戦争をしない国だということ

にとても誇りをもっています。

After WWII, Japan has not entered any war directly. Japan does not allow to enter any war unfer the law. I have been in the America for about 5 years, and that is the onething that I am really proud of Japan. Not Doing War. However, Japanese government tried to chage the law lately.

わたしが戦争反対だって言うと、「戦争ができないということは、自分の国を自分で守れないし、戦争しないなんて綺麗事だ」みたいなことをやんわり他の国出身の人に言われたりしますが、戦争は憎しみ悲しみしかうみません。

When I tell how I disagree about war. Some of my friend from other counrties would say”Yeah, but how are you guys protect your own country without having armed soldier? I understand what you mean, but that is not realistic.”

どうか、こんなことが二度と起こりませんようにと願って

毎日リハーサルに励んでいます。

This rehearseing proces is very heartbreaking. I wish human being never ever makesame mistakes again. No More War. Praying for people who are suffering at the war.

7月31日から Comfort Women: A New Musical 始まるので、

ニューヨークにお住まいの方、是非観にいらしてください。

Comfort Women: A New Musical. Opening night will be on July 31st.

Please come to see us!!!!

http://megalodon.jp/2015-0711-1135-01/tomoka-iwata.hatenablog.com/entry/2015/07/10/Comfort_Women%3A_A_New_Musical_%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6

https://web.archive.org/web/20150711023516/http://tomoka-iwata.hatenablog.com/entry/2015/07/10/Comfort_Women%3A_A_New_Musical_%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6

[eng] ‘Comfort woman statue’ to be set up in Chicago — 2015年7月10日

[eng] ‘Comfort woman statue’ to be set up in Chicago

‘Comfort woman statue’ to be set up in Chicago

By Jhoo Dong-chan

A statue commemorating the Korean women forced into sexual slavery during World War II is set to be unveiled in Chicago.

Lucy Baek, 78, who is leading the project, said the Windy City will have the statue as soon as August.

When completed, the statue will be the third of its kind in the United States, following one in Glendale, California, and another in Southfield, Michigan.

The statue is being made by Korean sculpting couple Kim Un-seong and Kim Seo-kyeong, who made the original comfort women statue in front of the Japanese Embassy in Seoul.

The couple started to make the Chicago statue last month, and believe it will take at least two months to complete the project, Baek said.

The project was initiated in July last year and is being sponsored by the Korean-American Association of Chicago. The association has raised some $52,000 so far for its design and construction.

The association is now searching for an ideal site to locate the statue.

Baek said she is expecting strong opposition from the local Japanese community, but it is “our job to teach the nation’s true history to the next generation.”

Along with the two existing comfort women statues, there are more than ten monuments in the U.S. to commemorate these victims.

The Japanese government has consistently demanded that they be removed.

korea times 2015-07-07

http://megalodon.jp/2015-0710-1904-06/https://archive.is:443/Gdssx

請求権問題とは無関係=日本の世界遺産発言 — 2015年7月8日

請求権問題とは無関係=日本の世界遺産発言

請求権問題とは無関係=日本の世界遺産発言-韓国

【ソウル時事】韓国外務省報道官は7日の記者会見で、「明治日本の産業革命遺産」の世界文化遺産登録をめぐり、日本代表が世界遺産委員会で本人の意思に反した徴用政策を行ったと表明したことに関し「請求権協定とは別の次元の問題だ」と述べた。

韓国政府としては、日本代表の発言を元徴用工による賠償請求権の根拠に利用する考えはないことを示したものだ。
一方、韓国外務省は7日、ホームページに「日本の世界遺産登録に『意思に反して強制労役した歴史』を反映」と題したコーナーを開設。世界遺産委での韓国側の発言だけでなく、日本代表の英語による発言も掲載した。
日本代表が発言した「forced to work」という言葉について、韓国は「強制労役した」と訳したが、日本は「働かされた」と訳し、「強制労働を意味するものではない」と説明している。
韓国では「ごまかしだ」との反発が強いが、報道官は「英語の意味通りに理解すればよい。英文だけが正本だ」と述べるにとどめ、日本国内での説明に干渉しない姿勢を示した。 (2015/07/07-16:43)

http://www.webcitation.org/6ZrCVQgBj

村山と日本人慰安婦 —

村山と日本人慰安婦

【阿比留瑠比の極言御免】なぜ日本人慰安婦には無関心なのか

前回の当欄(6日付)では平成5年8月、政府が慰安婦募集の強制性を認めた河野談話と慰安婦に関する調査結果報告を発表するに際し、内閣外政審議室がまとめた記者会見用の想定問答の「嘘」について指摘した。今回は、同様に情報公開請求で入手した外務省による想定問答の「矛盾」を指摘しておきたい。

A4判30枚、計24問について予想される質問と模範解答を記した文書では、こんな質問が記されていた。

「(河野洋平)官房長官談話においては、朝鮮半島出身の従軍慰安婦の募集などについて特記されているが、朝鮮半島と他の地域との間で慰安婦の募集形態などに相違があったのか」

これに対する答えはあっさりとしたものだった。

「朝鮮半島と他の地域との間で、慰安婦の募集形態などに特段の差があったとは考えていない」

また、関連して「朝鮮半島出身の従軍慰安婦の募集などについては、『総じて本人たちの意思に反して行われた』と記述されているが、これは、朝鮮半島と他の地域との間で慰安婦の募集形態に相違があったことを示しているのではないか」と追及された場合の回答文も全く同じだった。

ここから、外務省が河野談話の発表時点で、朝鮮半島もそれ以外の地域も、慰安婦の募集形態は基本的に同じだったと明確に認識していたことが分かる。

現代史家の秦郁彦氏によると、慰安婦の約4割は日本人で、朝鮮半島出身者は約2割だった。想定問答に依拠すると河野談話は、理屈の上ではこの日本人慰安婦についても募集の強制性を認めたものだとなる。

河野談話は慰安婦募集に関し「業者が主としてこれに当たった」とした上で、こう記述している。

「官憲等が直接これに加担したこともあった」

だが、進んで慰安婦になった者は少ないにしろ、日本で官憲(警察官や役人)が慰安婦の強制的な募集に直接加担した悪辣(あくらつ)な事例があったと、これまで耳目にしたことがない。

日本がそうであるならば、想定問答が「募集形態は同じだった」と明言する朝鮮半島でも、そんなことはなかったとしなければおかしいが、河野談話の趣旨は明らかに異なる。

相互に矛盾する河野談話と想定問答の書きぶりから浮かび上がるのは、結局、当時の宮沢喜一政権が韓国のご機嫌をとるためにやってもいないことをやったと認めただけであり、そのことを外務省も十分、自覚していたということだろう。

そう考えると、慰安婦問題の追及に熱心ないわゆる人権派が、なぜ日本人慰安婦には無関心なのかという疑問も氷解する。彼らは韓国をはじめ諸外国の元慰安婦に謝罪することで、「私は良心的だ」との満足を得たいだけなのではないか。

筆者は12年10月、元慰安婦に一時金(償い金)を支給するアジア女性基金の理事長だった村山富市元首相にインタビューし、こう問いかけたことがある。

「慰安婦の多くが日本人だったことはどう考えるのか。今後は、日本人も一時金の支給対象とするつもりはあるのか」

すると、それまで能弁だった村山氏は「うっ」と言葉に詰まったきり、何も答えられなかった。同胞の元慰安婦のことなど、それまで意識になかったのだろう。(政治部編集委員)

産経2014.2.12

http://megalodon.jp/2015-0708-0622-31/www.sankei.com/politics/news/140212/plt1402120013-n1.html

http://megalodon.jp/2015-0708-0624-06/www.sankei.com/politics/news/140212/plt1402120013-n2.html

永井和 朝日 — 2015年7月2日

永井和 朝日

(慰安婦問題を考える)「慰安所は軍の施設」公文書で実証 研究の現状、永井和・京大院教授に聞く

慰安婦や慰安所の実態はどこまでわかってきたのでしょうか。1993年、当時の河野洋平官房長官は「河野談話」で、慰安所の設置、管理に旧日本軍が関与していたことを明らかにしました。警察や軍の公文書などの資料をもとに、慰安所は軍の施設として設置されたことを明らかにした永井和・京都大大学院教授ら歴史研究者に、「河野談話以降」の研究の現状について聞きました。

■募集や渡航、軍が警察に協力を要請 慰安施設設置のため、軍の規則改定

――研究を始めた経緯は。

「1998年に授業で慰安婦問題をめぐる歴史論争を取り上げたのがきっかけで、慰安所成立の経緯を史料に即して解明しようと考え、2000年に最初の論文を発表しました」

――明らかになった事実は。

「日本軍の慰安所は軍が設置した軍の後方施設であることを軍や警察の公文書で実証しました。軍の組織である以上、軍は慰安婦問題に対する責任を免れないことになります。『慰安所は戦地における公娼施設、つまり民間の売春施設であり、軍に責任はない』という主張への批判でもあります」

――慰安所が作られた経緯は。

「日中戦争開始直後の37~38年、内務省警保局が慰安婦の募集や渡航に関して発したり報告を受けたりした一連の警察関連文書(資料〈1〉~〈5〉、〈7〉)が96年、警察大学校で見つかりました。当時、中国戦線で日本軍が慰安所を設置し、女性を募集した経緯が詳しくわかります」

「まず37年12月、中国に展開した中支那方面軍で『将兵の慰安施設の一端』として『前線各地に軍慰安所』を設置するよう定められました。上海の日本軍特務機関と憲兵隊、日本総領事館が業務分担協定を締結。軍の依頼を受けた業者が日本内地と朝鮮に派遣され、『皇軍慰安所酌婦3千人募集』の話を伝えて女性を集めました(資料〈1〉、〈2〉)」

――警察の対応は。

「事情を知らない地方警察にとって当初は信じがたい話だったようです。なにしろ軍が公序良俗に反する人身売買と売春の事業に着手し、公然と募集することになるのですから、軍の威信を失墜させかねない(資料〈3〉)。『民心とくに兵士の留守家庭に悪影響を与える恐れがある』として、募集活動を取り締まろうとしました(資料〈4〉)」

「和歌山県の警察は『軍の名をかたり売春目的で女性を海外に売り飛ばそうとしたのではないか』とみて、刑法の国外移送目的拐取の疑いで業者を取り調べました。しかし大阪の警察に問い合わせた結果、軍の依頼による公募とわかり、業者は釈放されています。大阪など一部の警察には事前に内々に軍からの協力要請が伝えられていたのです(資料〈2〉)」

「各地の警察の取り締まり方針を知った内務省は38年2月、軍の要請にもとづく慰安所従業婦の募集と中国渡航を容認するよう通達し、慰安婦の調達に支障が生じないようにしたのです。同時に軍の威信を保つため、軍との関係を隠すよう業者に義務づけることも指示しています(資料〈5〉)」

――同じ時期に軍が出した公文書もありますね。

「陸軍省は38年3月、女性の募集にあたっては地方の憲兵や警察当局と連絡を緊密に取るよう、中国に駐屯する日本軍に命じました(資料〈6〉)。同時期の警察文書と強い関連性が認められます」

「38年秋には、中国・広東攻略のため派遣された第21軍が参謀将校を東京に派遣し、慰安所で働く女性400人を渡航させるよう内務省に協力を要請しました。要請を受けた内務省は11月、大阪、福岡など各府県に女性の募集人数を割り当て、業者を選定して中国に送るよう手配を命じました(資料〈7〉)」

――慰安所を民間ではなく軍の施設とする根拠は。

「陸軍大臣が日中戦争開始後の37年9月に『野戦酒保規程』という規則を改定した記録を04年、防衛庁防衛研究所(当時)の所蔵資料から見つけました。軍隊内の物品販売所『酒保』に『慰安施設を作ることができる』との項目を付け加える内容です(資料〈8〉)。上海派遣軍参謀長は12月、『慰安施設の件方面軍より書類来り』『迅速に女郎屋を設ける』と日記に記しました(資料〈9〉)。派遣軍が『慰安施設』として『女郎屋』を設けたことを意味しています」

「41年に陸軍経理学校教官が経理将校教育のため執筆した教材(資料〈10〉)にも『慰安所の設置』が業務の一つと記されました。当時、陸軍経理学校で学んだ人は『調弁する女の耐久度とか消耗度』を記したマニュアルがあった(資料〈11〉)と証言しています」

――軍が慰安所設置を業務にしていったということですか。

「そうです。慰安所は民間業者が不特定多数の客のために営業する通常の公娼施設とは違います。軍が軍事上の必要から設置・管理した将兵専用の施設であり、軍の編成の一部となっていました」

――慰安所制度の問題点は。

「戦前でも公娼制度は、廃止論者から『人身売買に依る奴隷制度にして人道に反す』と批判されていました(資料〈12〉)。内務省は女性の自由意思を保障するためとして娼妓取締規則を定めましたが、軍慰安所についてはその程度の規則すら見つかっていません。慰安婦制度が『人身売買による奴隷制度だった』と批判されても仕方がない。紹介手数料として女性側が負う前借金の1割を軍部が紹介業者に支給するという趣旨の業者の供述(資料〈4〉)もあり、事実なら軍が人身売買に直接加担したと言っても過言ではありません」

「慰安婦募集の際、業者が『いい仕事がある』と女性をだまして連れ出す就業詐欺や誘拐が行われていたという証言が多くあります。これは刑法の国外移送目的拐取罪にあたり、軍慰安所はこうした犯罪行為に支えられていたといえます」

――慰安所に対する取り締まりはあったのですか。

「元憲兵の回想記には、軍直轄の喫茶店、食堂で働くとの契約で中国に連れてこられた朝鮮人女性が売春を強いられていた、といった就業詐欺の事例が記されています(資料〈13〉)。記述は慰安婦に同情的ですが、軍内部の違法行為を取り締まる立場なのに、何もせず放置したままでした」

「慰安所は軍に不可欠であり、それを維持するためには違法な方法で慰安婦が募集されてもやむを得ない――と考える体制が軍内部にできていたと思われます。たとえ政府や軍中央による命令がなくても、結果的に軍がそうした行為を容認したと言われても仕方がないのではないでしょうか」

――強制的に女性を連れて行く事例はあったのでしょうか。

「中国や東南アジアなど占領地では、一部部隊による拉致、人さらいのような強制連行が起きたことが戦犯裁判記録などで明らかになっています。慰安所を『戦地の公娼施設』とする考え方では『民間の業者や末端の部隊の軍紀違反行為にすぎず、軍中央の命令によるものではない』との主張になるのでしょう。しかし慰安所が軍の編成に組み込まれた軍の施設だとすれば、強制連行の軍命令の有無にかかわらず、軍の責任は否定できないといわざるを得ません」

(聞き手=編集委員・北野隆一)

◇永井和さん 京都大大学院教授(日本近現代史)

ながい・かず 1951年大阪市生まれ。富山大助教授、立命館大教授を経て京都大学大学院文学研究科教授(日本近現代史)。著書に「日中戦争から世界戦争へ」「青年君主昭和天皇と元老西園寺」「近代日本の軍部と政治」など。(滝沢美穂子撮影)

■河野談話後、多数の資料見つかる

慰安婦の存在は戦後、文学や元兵士の手記などで知られていたが、長く歴史学の研究対象とはされてこなかった。慰安婦問題の先駆的研究者である吉見義明・中央大教授は(1)軍や政府の資料が発見されていなかった(2)被害者の証言が得られにくかった(3)人権問題としてとらえる視点が乏しかった――を理由に挙げる。

研究状況が変わるきっかけは、冷戦の終結と韓国内の民主化だった。まず韓国の市民団体「韓国挺身隊問題対策協議会」が1990年、慰安婦問題の真相究明が必要と問題提起した。翌91年8月に元慰安婦の金学順(キムハクスン)さんが実名で証言し、12月に日本政府を相手に訴訟を起こした。

93年8月には当時の河野洋平官房長官が慰安所設置への軍の関与を認めて謝罪する「河野談話」を発表し、この間に研究の基礎がつくられた。資料となったのは、日本政府や研究者が発掘した軍や政府の公文書、元慰安婦の証言などだ。

河野談話以降、新たな資料の発見が進み、慰安所での女性たちの境遇が慰安所業者の日誌で明らかになりつつある。昨年6月、国内で慰安婦問題に取り組む市民団体が、永井教授が分析した警察資料や戦犯裁判資料など538点が河野談話以降に見つかっているとして日本政府に調査を求めた。ただ、朝鮮半島で物理的な強制力を使い女性たちが連行されたとする文書は確認されていない。

慰安婦問題を考える論文集「『慰安婦』問題を/から考える」(歴史学研究会、日本史研究会編)の出版にあたった大門正克(おおかどまさかつ)・横浜国立大教授は「植民地の日常から慰安婦が生まれた背景を探る研究や、各国の軍の管理売春と比較することで世界が克服すべき共通の課題と位置づける研究が出てきている。性暴力を問い直す世界史の流れの中で慰安婦問題をとらえることが必要だ」と話す。

■永井氏、法的根拠示す文書発見

慰安所の経営管理は主に民間の業者があたっていたが、軍が様々な面で慰安所の設立や運営に関与したことがこれまでわかっていた。

吉見教授によると、永井教授の研究の成果は主に、(1)軍が慰安所を設置する法的根拠を示す文書を発見した(2)慰安所は軍が設置した軍の施設であることを改めて資料で補強し確認した、という点にある。

吉見教授は、永井教授が発見した1937年の「改正野戦酒保規程」という陸軍大臣が改定した軍の内部規則に注目する。慰安施設をつくれるという一文を第1条に加えるもので「慰安所設置に法的根拠があったことを示しており、永井教授の資料発見は、大きな意味がある」。

アジア女性基金が96年10月に設けた「慰安婦」関係資料委員会は、河野談話の基礎になった資料とその後発見された警察関係資料を公刊した。基金の専務理事で、資料委の副委員長も務めた和田春樹・東京大名誉教授は「永井教授の研究は、これまでの軍や警察の資料を分析し直し、自身で発見した新たな資料を加味することで、軍が慰安所を設置したことを明らかにした」と話す。

(佐藤純、編集委員・豊秀一)

■インタビューに引用された資料(〈1〉~〈13〉)

〈1〉在上海日本総領事館警察署長から長崎水上警察署長にあてた依頼状「皇軍将兵慰安婦女渡来ニツキ便宜供与方依頼ノ件」(1937年12月21日付)

〈2〉和歌山県知事から内務省警保局長にあてた「時局利用婦女誘拐被疑事件ニ関スル件」(38年2月7日付)

〈3〉群馬県知事が内務大臣や陸軍大臣にあてた「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」(38年1月19日付)

〈4〉山形県知事が内務大臣や陸軍大臣にあてた「北支派遣軍慰安酌婦募集ニ関スル件」(38年1月25日付)

〈5〉内務省警保局長が各府県知事にあてた通牒「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件」(38年2月23日付)

〈6〉陸軍省副官から北支那方面軍及び中支那派遣軍参謀長にあてた依命通牒「軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件」(38年3月4日付)

〈7〉内務省警保局長から各府県知事にあてた通牒「南支方面渡航婦女ノ取扱ニ関スル件」(38年11月8日付)

〈8〉陸軍大臣から陸軍内に通達された「改正野戦酒保規程」(37年9月29日付)

〈9〉南京戦史編集委員会編、偕行社発行「南京戦史資料集1」(89年)

〈10〉清水一郎陸軍主計少佐編、陸軍主計団記事発行部刊行「初級作戦給養百題」(41年)

〈11〉桜田武・鹿内信隆著「いま明かす戦後秘史 上巻」(83年)

〈12〉内務省警保局「公娼制度ニ関スル件」(大正末ごろ作成)

〈13〉秦郁彦著「慰安婦と戦場の性」(99年)、鈴木卓四郎著「憲兵下士官」(74年)

■慰安婦をめぐる資料

<慰安所が作られた理由や経緯について>

●岡村寧次大将資料 上巻(1970年、原書房)

「私は恥ずかしながら慰安婦案の創設者。昭和7(1932)年の上海事変のとき、二、三の強姦(ごうかん)罪が発生したので、(上海)派遣軍参謀副長であった私は、同地海軍にならい、長崎県知事に要請して慰安婦団を招き、強姦罪がやんだので喜んだ」

●陸軍省医務局課長会報(39年4月15日)★

第21軍軍医部長が性病予防などのため兵100人に1人の割合で慰安隊を採り入れたと報告。計1400~1600人

●支那事変の経験より観たる軍紀振作対策(40年9月19日、陸軍省が関係部隊に送付)〈資料A〉★

「性的慰安所より受くる兵の精神的影響は最も率直、深刻にして、これが指導監督の適否は志気の振興、軍紀の維持、犯罪および性病の予防等に影響するところ大」

●陸軍省課長会報(42年9月3日)〈資料B〉★

恩賞課長が慰安所を北支100カ所、中支140カ所、南支40カ所、南方100カ所、南海10カ所、樺太10カ所の計400カ所作ったと報告

<慰安婦の集め方について>

●米軍の調査報告書(44年10~11月)★

42年5月初め、軍から慰安所経営をもちかけられた日本人業者が朝鮮で慰安婦を募集。朝鮮軍司令部は業者への協力を求める他の軍司令部あての手紙を業者に持たせた。業者はけが人や病人の慰問、高収入、軽労働などといううその宣伝で女性を集め、7月10日に釜山を出港。朝鮮人女性703人と日本人業者約90人が乗っていた。8月20日に(現ミャンマーの)ラングーンに到着し、女性らは20~30人のグループに分けられ各地の部隊に配属された。

●バタビア臨時軍法会議の記録〈資料C〉★

戦後のオランダ軍による戦犯裁判で、日本の軍人ら9人が44年2~4月ごろ、インドネシア・ジャワ島で抑留されていた10人ほどのオランダ人女性に売春を強制したなどとして死刑を含む有罪判決(スマラン事件)

<慰安所での処遇について>

●「常州駐屯間内務規定」など17件(38~45年)★

中国や東南アジア各地などに設置された慰安所の管理規定。軍による慰安所の建物の提供や営業の監督、営業時間、兵士が払う料金、慰安婦の性病検査などが定められている。フィリピンのイロイロ派遣憲兵隊の「慰安所規定」は「慰安婦外出を厳重取締」としていた。

●オランダ政府の調査報告(93年)

日本軍の慰安所で働いたオランダ人女性は200~300人、そのうち65人は売春を強制されたことが「絶対確実である」

不適切な表現も原文のままとしています。仮名遣いなどは現在の平易な表現に改めました。★印は92~93年に日本政府が確認した資料計285件に含まれるもの。インターネットのサイト「デジタル記念館 慰安婦問題とアジア女性基金」の「慰安婦関連歴史資料」のコーナーに収録されているものもあります。永井教授が分析した警察関係資料も同コーナーで見られます

朝日 2015年7月2日

http://megalodon.jp/2015-0702-0836-35/www.asahi.com/articles/DA3S11836618.html