“アベ寄って行った後米尋常でなくて…米議員慰安婦本与えても拒絶”
書屋者ワシントン挺身隊対策委顧問
来る30日はアメリカ下院で慰安婦決議案が通過されて8周年になる日だ。 安倍晋三(安倍晋三)日本総理が慰安婦動員の強制性を否認して慰安婦問題は韓日修交50周年をむかえた今年韓国・日本間核心イシューになっているけれど、米下院ではすでに8年前慰安婦決議案を全員一致で通過させることによって日本側に完全な解決を促したのだ。
2007年7月30日慰安婦決議案が通過されたところにはレーン エバンズ(1951~2014・民主・イリノイ)議員の役割が大きかった。 彼は1999年日本軍の慰安婦強制動員事実を米議会議事録に初めて記録を残した後2001年から5番にかけて決議案を提出した。 エバンズ議員はパーキンソン病闘病生活中慰安婦決議案を相次いで提出したし結局2007年7月30日下院本会議で全員一致で慰安婦決議案が通過された。 書屋者(米バージニア州、コロンビア カレッジ教授)ワシントン挺身隊対策委員会顧問はエバンズ議員の恋人であり友達として慰安婦決議案の下院通過過程を現場で見守った人物だ。 ソ顧問はエバンズ議員が去る2014年11月亡くなった後、世の中に知らされなかった慰安婦決議案通過前後の生き生きした話を‘あなたの声になって’(セチャン メディア間)とは本に吐き出した。 去る2日京畿(キョンギ)広州(クァンジュ)‘ナムヌの家’で開かれた出版記念会で彼に会って、エバンズ議員と慰安婦問題にからまった話を聞いた。
―エバンズ議員の努力で米下院で慰安婦決議案が通過されてすでに8年になる。 韓国と特別な縁がないエバンズ議員が慰安婦問題に関心を持つことになった契機は何であると考えるのか。
“エバンズが1999年下院議事録に慰安婦問題に対して初めての記録を残したが、彼は当時‘私たちは助けが必要なこれらを助けるべきである義務があります。 本人自ら立ち上がることはできないこれらのために立ち上がらなければならなくて、自身の声を出すことはできないこれらのために声を出さなければならない義務があります’と話して慰安婦問題を提起した。 それに先立ちエバンズと親しいウィリアムlupineスキー下院議員は1998年慰安婦問題に対しては言及をしはしなかったが日本が2次世界大戦被害者に謝って補償しなければならないという内容の米下院126号決議案を発議したことがある。 エバンズはlupineスキー議員の補佐官である中国系ジェイスン タイと親しかったが、彼がエバンズに慰安婦問題に対するインスピレーションを吹き込んだようだ。 エバンズはこれらと似合って韓国の歴史に対して知るようになったし慰安婦問題に対しても深い関心を持つことになった。”
―エバンズ議員は1999年米議会に慰安婦関連初めての記録を残した後議員職引退をする時まで引き続き決議案を出したが。
“エバンズは合計5番決議案を出した。 5回目決議案を出す時彼は2006年ヘンリー・ハイド(1924~2007・共和・イリノイ)下院外交委院長に特別電話をしたがそのおかげで慰安婦決議案が下院外交委を通過することができた。 そうみたいな会議が開けないまま会期が終わって惜しくも廃棄された。”
エバンズ議員は民主党、ハイド外交委院長は共和党所属で党が違ったが、二人はイリノイ州出身という共通分母がある。 エバンズ議員はハイド委員長に電話をかけた時次の通り頼んだと‘あなたの声になって’に記録されている。
“私は持病によってまもなく議会を離れる人で、あなたもまもなくやはり議会を離れなければならない境遇なのに、私の最後の懇請を聞き入れなさい。 日本軍慰安婦問題を外交委員会で通過させれば有難いです。”
ハイド委員長はこの電話後慰安婦決議案支持で背を向けたし決議案は下院外交委を通過した。 しかし2006年末共和党主導の下院でジョン ペイノ当時共和党院内総務(ヒョン下院議長)は慰安婦決議案を感服できないと考えたし,この決議案を本会議に上程しなかった。 慰安婦決議案は再び2007年下院に上程(想定)されてついに7月30日下院全体会議を通過した。
米下院慰安婦決議案通過当時駐米大使であったイ・テシク延世(ヨンセ)大アンダーウッド国際大レイニ客員教授は去る2日ナムヌの家で開かれた出版記念会に参加してエバンズ議員とハイド委員長に対してこのように回顧した。
“私が駐米大使で仕事をした2006年米ワシントンは慰安婦決議案問題に関心が傾いたが、韓国ではダグラス・マッカーサー将軍の銅像き損論議で騒々しかった時期です。 私が大使で赴任してハイド委員長に要人を行ったところ仁川(インチョン)、自由(チャユ)公園にあるマッカーサー銅像の話を取り出したのです。 ハイド委員長は青年時期マッカーサー将軍を遂行して2次大戦に参戦した方なのに、韓国でマッカーサー銅像き損動きが日時ノ・ムヒョン当時大統領に手紙を書いてマッカーサー銅像を傷つけるよりはアメリカに回してくれと言いましたよ。 私がその方に‘マッカーサー銅像を私たちが3交代で24時間守っていると心配されるな。 韓米関係を助けてくれ’でしました。 その方はその年夏訪韓したし盧大統領も会いました。 その方は慰安婦決議案を下院外交委で通過させるのに決定的役割をしましたよ。 慰安婦決議案が下院外交委を通過した後2006年11月政府が授ける修交勲章光化粧を持ってその方事務室に訪ねて行って首にかけて差し上げました。 その時その方は車椅子に座って“サンキュー、サンキュー、サンキュー. この有り難みを絶対に忘れない(Thank you,thank you,thank you. I will never forget this)”としました。 その後その方は2007年11月亡くなりました。 エバンズ議員をはじめとしてハイド委員長などの労苦があったので慰安婦決議案が下院を通過できました。 私たちが忘れてはいけない方は忘れてはいけません。”
―エバンズ議員はそんなに慰安婦決議案のために努力したが通過を見られないまま引退したが。
“エバンズはパーキンソン病が深くなって故郷であるイリノイ州ロクアイルランドに発ったが、彼の後に続いてマイク本田(民主・カリフォルニア)下院議員が主導的役割をした。 彼が2007年1月31日決議案を出したし以後慰安婦聴聞会を経て7月30日下院全体会議を通過したのだ。 慰安婦聴聞会にはイ・ヨンス、キム・クンジャおばあさんが出てきて証言をしたが聴聞会に先立ちエバンズが私に‘あなたが誇らしい’としながら激励電話をすることもした。 聴聞会後レセプション席には当時セヌリ党議員でワシントンを訪問中だったパク・クネ大統領も参加した思い出す。”
―エバンズ議員と本田議員間に特別な縁があるのか。
“二人は民主党全党大会で会って親しくなった。 当時初当選だった本田議員はとても活動的で精力的だった。 私に‘玉姿、私を活用して(慰安婦決議案)ことを推進してください’という話も私にした。 彼は州議員である時カリフォルニア州議会で全員一致で慰安婦決議案を通過させた人物だ。 日系3才である彼は日本人たちの批判を受け取ってその仕事をした。”
エバンズ議員は1996年発病したパーキンソン病が悪化するとすぐに2007年1月議定(議会活動)生活をたたんだし、慰安婦決議案推進任務は本田議員にまかせた。 本田議員は2006年12月第109会期米議会が閉会する日、公式に慰安婦決議案たいまつを買収すると宣言した。 翌年1月民主・共和両党共同で慰安婦決議案を発議した。 引き続き1ヶ月後慰安婦聴聞会が下院で開かれたしソ顧問と慰安婦被害者であるイ・ヨンスおばあさんなどが証言者に出た。 以後慰安婦決議案は6月下院外交委を通過したのに続き7月30日下院本会議を通過した。 当時トム レントス下院議員は“日本政府が日本軍慰安婦問題に対して公式謝らないで過ぎ去った歴史に対して責任を負わないならばこれは洗えないことで恥かしいこと”と叱責した。 本田議員などの演説が続いた後下院本会議場で全員一致で通過した。
ソ顧問はエバンズ議員が始めた慰安婦決議案が下院で通過した瞬間をこのように記憶した。
“議員はエバンズに栄誉を回すのを忘れなかった。 エバンズ名前が議事堂に広がるたびにほとばしる涙を抑制できなかった。 議会本会議場に入るためにハンドバッグと持ち物を全部保管所にまかせて手ぶらに行かなければならなかったので涙をふくハンカチさえなくて顔は涙でごちゃ混ぜになって汚された。 議会本会議場の2階ギャラリーに座って会議場を見守るとどこかでエバンズがにっこり笑って現れるようで胸がしびれた。”
―エバンズ議員とはどのように会ったか。
“私が神学博士学位論文を書いた頃である1999年ワシントン挺身隊対策委員会事務総長を引き受けることになった。 当時エバンズは私たちの委員会にきて慰安婦問題関連演説をしたがその日以後意気投合になった。”
エバンズ議員とソ顧問は‘自由と独立’を追求して結婚しないまま生きてきた専門職シングルなのに慰安婦被害者のために共に戦うという大義で一つになった。 以後ソ顧問は2014年エバンズ議員が亡くなる時までエバンズ議員の最も近い友達であり、恋人だった。
ソ顧問は以後ワシントン政界のシンデレラになった。 米下院重鎮であるエバンズ議員が年末ホワイトハウスの送年パーティーに参加する時にはガールフレンド者のように同行、ビル・クリントン大統領夫婦、ジョージWブッシュ大統領夫婦と会った。 エバンズ議員と懇意な民主党下院議員はもちろん共和党下院議員とも交流して議会内外の知人たちも多くなった。
エバンズ議員のパーキンソン病が深くなってソ顧問は不便な彼のからだを洗われて服を着せる役割で運転手役割までもやり遂げた。 2007年エバンズ議員が引退後故郷であるイリノイ州に降りて行った後では彼の兄弟らと看病人ために時々接近が阻止される状況を体験して難しい時期を送った。 このためにソ顧問はエバンズ議員死亡後彼の最後を一緒にできなかったという罪悪感に苦しめられたりもしたと打ち明けた。
“昨年11月エバンズが死亡した後後悔をたくさんした。 この世の中に私のようなバカがないと考えた。 私は中学生の時から信仰を持って生きてきた人だ。 エバンズが病気を勝ち抜いて立ち上がることができた。 そのような信頼で祈祷を捧げて生きてきた。 それがなかったとすれば私が8年を耐えられなかっただろう。 しかし昨年11月エバンズ死亡消息を聞いて生きなければならない希望を失った。 人生の最後の砦が崩れ落ちたようにすべてのことが揺れた。”
―‘あなたの声になって’を見ればエバンズ議員を2008年から2014年までまともに会えなかったといったが。
“初期にはそれなりに通話をしたが病気が深くなって彼の兄弟らと看病人などが法定後見人の資格を前に出して私が接近することを防いだ。”
―なぜそんなことが広がったと見るのか。
“おそらく経済的利害関係のためそうだと考えるが、私がアジア人という人種的理由も敷かれたようだ。 友達がそうしたよ私がアメリカ女だったら彼らがそのようにできなかったことだと。”
―策には一生独身を守ったエバンズ議員が晩年に求婚をしたことが明らかになるのになぜ応じなかったか。
“初めに求婚を受けて迷ったがそのような渦中に状況が変わって法定後見人が結婚を反対した。 運命の車輪にまきこまれて入る感じだった。”
―運命の車輪を突破できない計算なのに。
“法定後見人が私を徹底的に遮断したし、エバンズを監視した。 私を‘ゴールド ディガー(gold digger・お金を狙って男に接近する女性)’という式で追い詰めることもした。”
―エバンズ議員のパーキンソン病発病原因に対してはどのように見るか。 エバンズ家にパーキンソン病が家族歴があるか。
“彼は次男なのに10台の時お父さんと化学肥料をばらまいて畑で仕事をしたという。 兄と弟は家であってエバンズとお父さんだけ化学肥料をばらまいて仕事をしたために二人がパーキンソン病を病んだと聞いた。 当時アメリカでは化学肥料がパーキンソン病と関連があるという話があった。”
―いつ発病したのか。
“46才の時あるパレードに参加して手をあげたが上がらなくてとても驚いたといったよ。 以後病院でパキスン判定を受けた。 その後病魔と戦って10年間さらに下院議員職を遂行した。 彼はいくら痛くても表情に出さなかったし周辺の人々をうれしくする雰囲気メーカーの役割が上手だった。 海兵隊出身なのでそうなのか全てのものを肯定的に対した。”
―1999年お二人様が初めて会った頃にすでにエバンズ議員がパーキンソン病がたくさん進行された状態だったはずなのに。
“すでに進行された時だったが薬をちょっと強く食べれば良くなったりした。 患者が病気で死ぬのでなくたいてい薬で死ぬという話がある。 私が彼に会った頃脳に関連した薬を1粒ずつ食べて2粒で服用量を増やした。 それを2006年頃には看病人が6粒ずつ餌だよ。 ところでエバンズは薬を水で飲まないでダイエット コーラで食べた。 胃腸(偽装)がどれくらい傷ついたのだろうか、上(胃)がどれくらい痛かっただろうか考えただけでも胸が痛い。 特にエバンズが2006年ソウルを訪問したが飛行機に乗って長時間旅行するのが無理であったようだ。 脳のマヒ、からだ筋肉のマヒを耐え抜くことができなかった。 その訪問後さらに悪化した。”
―エバンズ議員は生前に韓国を2番きたといったのに。
“元気だった時ちょっときたことがあってそして2006年訪問した。 当時ナムヌの家を訪問して慰安婦被害者おばあさんらと会ったのが記憶に残る。”
―‘あなたの声になって’が出版されることによって米下院慰安婦決議案に対するエバンズ議員の情熱が韓国で新しく照明されるようだ。 本はどのように書くことになったか。
“昨年11月エバンズが亡くなって何もすることができなかったので1ヶ月後から本を書き始めた。 本来原稿(原告)は2007年決議案通過後整理しておいたことなのに、その後エバンズが亡くなる時までの記憶を追加して新しく使ったのだ。”
去る2日出版記念会でソ顧問はこのように話した。
“私は専門作家でもなくて、本を出したこともありません。 2014年エバンズ議員を送った後‘あなたの声になって’を使い始めました。 その人の魂を感じて本を書きました。 脳が麻痺していく状態でその方がしたがった話が何かを考えて胸から出る声、魂から出る声を集めてした者した者少なかったです。 毎日毎日崩れていく身体の中で自身の意見もまともに表現できない状況をそばで見守ってもう私がその方の声になるべきだとの考えで本を出したのです。”
―策を出すことによってもうエバンズ議員との縁を総整理した計算なのに、今後計画は。
“周囲でエバンズ議員記念館を作るのがどうかといって考え中だ。 まず遺品などを集めてワシントン挺身隊対策委事務室にちっぽけにさせる計画だ。 当分ワシントンで仕事をして慰安婦でないだけでなく北朝鮮人権事を成して韓米関係を繋いてくれる役割をしようとする。”
―北朝鮮人権とは、もう領域を慰安婦問題で北脱出者問題まで広げるということなのか。
“スザンヌ・ショルティ ディペンスフォーラム財団代表とともに北朝鮮人権に対する事を成している。 前回ショルティが連邦下院議員に出馬した時には私が選挙対策委員長で仕事をした。”
―ショルティは共和党所属で、ソ顧問は民主党支持者であるはずなのにそれが可能だったか。
“そうでなくても私がショルティに話した。 私は民主党地元の人なのにもう民主党側に顔も入れないと冗談を言った(笑い). 党籍を超越してショルティが北朝鮮人権のために戦う姿、そして北脱出者のために仕事をする姿が良かった。”
―今年安倍総理のワシントン議会演説以後米日関係が蜜月期に入り込んだという話が多いが、この頃米議会で慰安婦問題に対する関心はどうか。
“そうでなくても21日キル・ジョンウ セヌリ党議員招請で‘韓日歴史イシューに対するアメリカ政界の認識と争点’を主題で講義をするのにアメリカが変わっている。 ワシントン挺身隊対策委で慰安婦おばあさんの口述記録集である‘聞こえるのですか(Can You Hear Me)’英文版を議会各事務室にまわしたところ米議員が意外に受けないとしてびっくりした。”
―策を寄贈することなのに断ったという話なのか。
“そうだ。 挺身隊対策委役員が伝達しようとしたところ‘ノーセンス(No Thanks)’といったよ。 去る5~6月初めのことだ。 アメリカ議会人々の心理に変化が多いようだ。 バラク・オバマ大統領が安倍総理と手を握って共に出て行くところに私たちが慰安婦に集中する必要があるかという気流ができるようだ。 私たちがそのようなアメリカの新しいトレンドに合わせて新しい対応法を探さなければならない。 中国は中国自らの利害関係のために新しい試みをして日本はアメリカの各大学に多くの基金をばらまく方式で影響力を広げようとするのに私たちは対外広報や外国大学支援面でたくさん不足する。
―オバマ行政府側はどうなのか.
“国務部の気流も変化するようだ。 ウェンディ シャーマン国務部政務次官の日本編向け過去の歴史発言がそのまま出てきたのではない。 自分ひとりで軽く話せるのが絶対ない。 永らく国務部実務者に会ってよく分かるのにこれらもこの頃は韓国疲労症(Korea Fatigue)を話したよ。 彼らがそんなに話す時私も驚いた。”
インタビュー=イ・ミスク国際部長
“아베 다녀간 후 美심상찮아… 美의원들 위안부 책 줘도 거절”
서옥자 워싱턴 정신대 대책委 고문
오는 30일은 미국 하원에서 위안부 결의안이 통과된 지 8주년이 되는 날이다. 아베 신조(安倍晋三) 일본 총리가 위안부 동원의 강제성을 부인하면서 위안부 문제는 한일수교 50주년을 맞은 올해 한·일간 핵심이슈가 되고 있지만, 미 하원에서는 이미 8년 전 위안부 결의안을 만장일치로 통과시킴으로써 일본 측에 완전한 해결을 촉구한 것이다.
2007년 7월 30일 위안부 결의안이 통과된 데에는 레인 에번스(1951∼2014·민주·일리노이) 의원의 역할이 컸다. 그는 1999년 일본군의 위안부 강제동원 사실을 미 의회 의사록에 처음으로 기록을 남긴 뒤 2001년부터 5번에 걸쳐 결의안을 제출했다. 에번스 의원은 파킨슨병 투병생활 중 위안부 결의안을 잇달아 제출했고 결국 2007년 7월 30일 하원 본회의에서 만장일치로 위안부 결의안이 통과됐다. 서옥자(미 버지니아주 컬럼비아 칼리지 교수) 워싱턴 정신대 대책위원회 고문은 에번스 의원의 연인이자 친구로서 위안부 결의안의 하원 통과과정을 현장에서 지켜본 인물이다. 서 고문은 에번스 의원이 지난 2014년 11월 세상을 떠난 뒤, 세상에 알려지지 않았던 위안부 결의안 통과 전후의 생생한 얘기를 ‘그대의 목소리가 되어’(세창 미디어 간)란 책에 쏟아냈다. 지난 2일 경기 광주 ‘나눔의 집’에서 열린 출판기념회에서 그를 만나, 에번스 의원과 위안부 문제에 얽힌 얘기를 들었다.
―에번스 의원의 노력으로 미 하원에서 위안부 결의안이 통과된 지 벌써 8년이 된다. 한국과 특별한 인연이 없는 에번스 의원이 위안부 문제에 관심을 갖게 된 계기는 무엇이라고 생각하는가.
“에번스가 1999년 하원 의사록에 위안부 문제에 대해 첫 기록을 남겼는데, 그는 당시 ‘우리는 도움이 필요한 이들을 도와야 할 의무가 있습니다. 본인 스스로 일어설 수 없는 이들을 위해 일어서야 하고, 자신의 목소리를 낼 수 없는 이들을 위해 소리를 내야 할 의무가 있습니다’라고 말하면서 위안부 문제를 제기했다. 그에 앞서 에번스와 친한 윌리엄 루핀스키 하원의원은 1998년 위안부 문제에 대해선 언급을 하지는 않았지만 일본이 2차세계대전 피해자들에게 사과하고 보상해야 한다는 내용의 미 하원 126호 결의안을 발의한 적이 있다. 에번스는 루핀스키 의원의 보좌관인 중국계 제이슨 타이와 친했는데, 그가 에번스에게 위안부 문제에 대한 영감을 불어넣어 준 것 같다. 에번스는 이들과 어울리면서 한국의 역사에 대해 알게 됐고 위안부 문제에 대해서도 깊은 관심을 갖게 됐다.”
―에번스 의원은 1999년 미 의회에 위안부 관련 첫 기록을 남긴 뒤 의원직 은퇴를 할 때까지 계속해서 결의안을 냈는데.
“에번스는 총 5번 결의안을 냈다. 5번째 결의안을 낼 때 그는 2006년 헨리 하이드(1924∼2007·공화·일리노이) 하원 외교위원장에게 특별전화를 했는데 그 덕분에 위안부결의안이 하원 외교위를 통과할 수 있었다. 그러나 본회의가 열리지 못한 채 회기가 끝나면서 아깝게도 폐기됐다.”
에번스 의원은 민주당, 하이드 외교위원장은 공화당 소속으로 당이 달랐지만, 두 사람은 일리노이주 출신이라는 공통분모가 있다. 에번스 의원은 하이드 위원장에게 전화를 걸었을 때 다음과 같이 당부했다고 ‘그대의 목소리가 되어’에 기록되어 있다.
“나는 지병으로 인하여 얼마 안 있으면 의회를 떠날 사람이고, 당신도 얼마 안 있으면 역시 의회를 떠나야 하는 처지인데, 나의 마지막 간청을 들어주시오. 일본군 위안부 문제를 외교위원회에서 통과시켜주시면 고맙겠소.”
하이드 위원장은 이 전화 후 위안부 결의안 지지로 돌아섰고 결의안은 하원 외교위를 통과했다. 그러나 2006년 말 공화당 주도의 하원에서 존 베이너 당시 공화당 원내총무(현 하원의장)는 위안부 결의안을 탐탁지 않게 생각했고, 이 결의안을 본회의에 상정하지 않았다. 위안부 결의안은 다시 2007년 하원에 상정되어 마침내 7월 30일 하원 전체회의를 통과했다.
미 하원 위안부 결의안 통과 당시 주미대사였던 이태식 연세대 언더우드국제대 레이니 석좌교수는 지난 2일 나눔의 집에서 열린 출판기념회에 참석해 에번스 의원과 하이드 위원장에 대해 이렇게 회고했다.
“제가 주미대사로 일하던 2006년 미 워싱턴은 위안부 결의안 문제에 관심이 쏠렸지만, 한국에서는 더글러스 맥아더 장군 동상 훼손 논란으로 시끄러웠던 시기입니다. 제가 대사로 부임해 하이드 위원장에게 인사를 갔더니 인천 자유공원에 있는 맥아더 동상 얘기를 꺼내더군요. 하이드 위원장은 청년 시절 맥아더 장군을 수행해 2차대전에 참전했던 분인데, 한국에서 맥아더 동상 훼손 움직임이 일자 노무현 당시 대통령에게 편지를 써서 맥아더 동상을 훼손하느니 미국으로 돌려달라고 했지요. 내가 그분께 ‘맥아더 동상을 우리가 3교대로 24시간 지키고 있으니 걱정하시지 마라. 한미관계를 도와달라’고 했습니다. 그분은 그해 여름 방한했고 노 대통령도 만났습니다. 그분은 위안부 결의안을 하원 외교위에서 통과시켜주는 데 결정적 역할을 했지요. 위안부 결의안이 하원 외교위를 통과한 뒤 2006년 11월 정부가 수여하는 수교훈장 광화장을 갖고 그분 사무실에 찾아가 목에 걸어드렸습니다. 그때 그분은 휠체어에 앉아 “생큐, 생큐, 생큐. 이 고마움을 절대로 잊지 않겠다(Thank you, thank you, thank you. I will never forget this)”고 했습니다. 그 후 그분은 2007년 11월 세상을 떠났습니다. 에번스 의원을 비롯해 하이드 위원장 등의 노고가 있었기에 위안부 결의안이 하원을 통과할 수 있었습니다. 우리가 잊지 말아야 할 분들은 잊지 말아야 합니다.”
―에번스 의원은 그렇게 위안부 결의안을 위해 노력했지만 통과를 보지 못한 채 은퇴했는데.
“에번스는 파킨슨병이 깊어져 고향인 일리노이주 록아일랜드로 떠났지만, 그의 뒤를 이어 마이크 혼다(민주·캘리포니아) 하원의원이 주도적 역할을 했다. 그가 2007년 1월 31일 결의안을 냈고 이후 위안부 청문회를 거쳐 7월 30일 하원 전체회의를 통과한 것이다. 위안부 청문회에는 이용수, 김군자 할머니가 나와 증언을 했는데 청문회에 앞서 에번스가 내게 ‘당신이 자랑스럽다’면서 격려 전화를 해주기도 했다. 청문회 후 리셉션 자리엔 당시 새누리당의원으로 워싱턴을 방문 중이던 박근혜 대통령도 참석했던 기억이 난다.”
―에번스 의원과 혼다 의원 간에 특별한 인연이 있는가.
“두 사람은 민주당 전당대회에서 만나서 친해졌다. 당시 초선이었던 혼다 의원은 아주 활동적이고 정력적이었다. 내게 ‘옥자, 나를 활용해서 (위안부 결의안) 일을 추진하세요’는 말도 내게 했다. 그는 주의원일 때 캘리포니아 주의회에서 만장일치로 위안부 결의안을 통과시켰던 인물이다. 일본계 3세인 그는 일본인들의 비판을 받아가면서 그 일을 했다.”
에번스 의원은 1996년 발병한 파킨슨병이 악화되자 2007년 1월 의정 생활을 접었고, 위안부 결의안 추진 임무는 혼다 의원에게 맡겨졌다. 혼다 의원은 2006년 12월 제109회기 미 의회가 폐회하는 날, 공식으로 위안부 결의안 횃불을 인수한다고 선언했다. 이듬해 1월 민주·공화 양당 공동으로 위안부 결의안을 발의했다. 이어 한 달 후 위안부 청문회가 하원에서 열렸고 서 고문과 위안부 피해자인 이용수 할머니 등이 증언자로 나섰다. 이후 위안부 결의안은 6월 하원 외교위를 통과한 데 이어 7월 30일 하원 본회의를 통과했다. 당시 톰 랜토스 하원의원은 “일본 정부가 일본군 위안부 문제에 대해 공식 사과하지 않고 지나간 역사에 대해 책임을 지지 않는다면 이는 씻을 수 없는 일이고 수치스러운 일”이라고 질타했다. 혼다 의원 등의 연설이 이어진 뒤 하원 본회의장에서 만장일치로 통과됐다.
서 고문은 에번스 의원이 시작한 위안부 결의안이 하원에서 통과되던 순간을 이렇게 기억했다.
“의원들은 에번스에게 영예를 돌리는 것을 잊지 않았다. 에번스 이름이 의사당에 퍼질 때마다 솟구치는 눈물을 억제할 수 없었다. 의회 본회의장에 들어가기 위해 핸드백과 소지품을 모두 보관소에 맡겨두고 빈손으로 가야 했기에 눈물을 닦을 손수건조차 없어 얼굴은 눈물로 뒤범벅되어 얼룩졌다. 의회 본회의장의 2층 갤러리에 앉아 회의장을 지켜보니 어디에선가 에번스가 싱긋 웃으며 나타날 것 같아 가슴이 저렸다.”
―에번스 의원과는 어떻게 만났나.
“내가 신학박사 학위 논문을 쓰던 무렵인 1999년 워싱턴 정신대 대책위원회 사무총장을 맡게 됐다. 당시 에번스는 우리 위원회에 와서 위안부 문제 관련 연설을 했는데 그날 이후 의기투합이 됐다.”
에번스 의원과 서 고문은 ‘자유와 독립’을 추구하며 결혼하지 않은 채 살아온 전문직 싱글인데 위안부 피해자를 위해 함께 싸운다는 대의로 하나가 됐다. 이후 서 고문은 2014년 에번스 의원이 세상을 떠날 때까지 에번스 의원의 가장 가까운 친구이자, 연인이었다.
서 고문은 이후 워싱턴 정계의 신데렐라가 됐다. 미 하원 중진인 에번스 의원이 연말 백악관의 송년파티에 참석할 때엔 여자 친구자격으로 동행, 빌 클린턴 대통령 부부, 조지 W 부시 대통령 부부와 만났다. 에번스 의원과 절친한 민주당 하원의원들은 물론 공화당 하원의원들과도 교류하며 의회 안팎의 지인들도 많아졌다.
에번스 의원의 파킨슨병이 깊어지면서 서 고문은 불편한 그의 몸을 씻기고 옷을 입히는 역할에서 운전기사 노릇까지도 해냈다. 2007년 에번스 의원이 은퇴 후 고향인 일리노이주로 내려간 뒤로는 그의 형제들과 간병인들 때문에 때때로 접근이 저지되는 상황을 겪으며 어려운 시기를 보냈다. 이 때문에 서 고문은 에번스 의원 별세 후 그의 마지막을 함께 하지 못했다는 죄책감에 시달리기도 했다고 털어놨다.
“지난해 11월 에번스가 별세한 뒤 후회를 많이 했다. 이 세상에 나 같은 바보가 없다는 생각을 했다. 저는 중학생 때부터 신앙을 갖고 살아온 사람이다. 에번스가 병을 이겨내고 일어설 줄 알았다. 그런 믿음으로 기도를 하며 살아왔다. 그것이 없었다면 내가 8년을 못 견뎠을 것이다. 그러나 지난해 11월 에번스 별세 소식을 듣고 살아야 할 희망을 잃었다. 삶의 마지막 보루가 무너져 내린듯 모든 게 흔들렸다.”
―‘그대의 목소리가 되어’를 보면 에번스 의원을 2008년부터 2014년까지 제대로 못 만났다고 했는데.
“초기엔 그나마 통화를 했는데 병이 깊어지면서 그의 형제들과 간병인 등이 법정후견인의 자격을 내세우며 내가 접근하는 것을 막았다.”
―왜 그런 일이 벌어졌다고 보는가.
“아마도 경제적 이해관계 때문일 것 같다고 생각하는데, 내가 아시아인이라는 인종적 이유도 깔린 것 같다. 친구들이 그러더라 내가 미국 여자였으면 그들이 그렇게 하지 못했을 것이라고.”
―책에는 평생 독신을 고수했던 에번스 의원이 말년에 청혼을 한 것으로 나타나는데 왜 응하지 않았나.
“처음에 청혼을 받고 망설였는데 그러는 와중에 상황이 바뀌면서 법정후견인이 결혼을 반대했다. 운명의 수레바퀴에 휘말려 들어가는 느낌이었다.”
―운명의 수레바퀴를 돌파하지 못한 셈인데.
“법정후견인들이 저를 철저히 차단했고, 에번스를 감시했다. 나를 ‘골드 디거(gold digger·돈을 노리고 남자에게 접근하는 여성)’라는 식으로 몰아붙이기도 했다.”
―에번스 의원의 파킨슨병 발병 원인에 대해선 어떻게 보나. 에번스 집안에 파킨슨병이 가족력이 있나.
“그는 둘째 아들인데 10대 때 아버지와 화학비료를 뿌리며 밭에서 일했다고 한다. 형과 남동생은 집에서 있고 에번스와 아버지만 화학비료를 뿌리며 일한 탓에 두 사람이 파킨슨병을 앓았다고 들었다. 당시 미국에서는 화학비료가 파킨슨병과 관련이 있다는 얘기가 있었다.”
―언제 발병했는가.
“46세 때 한 퍼레이드에 참석해 손을 들었는데 올라가지 않아 너무 놀랐다고 하더라. 이후 병원에서 파킨슨 판정을 받았다. 그 후 병마와 싸우면서 10년간 더 하원의원직을 수행했다. 그는 아무리 아파도 내색하지 않았고 주변 사람들을 기쁘게 해주는 분위기 메이커 역할을 잘했다. 해병대 출신이어서 그런지 모든 것을 긍정적으로 대했다.”
―1999년 두 분이 처음 만나던 무렵에 이미 에번스 의원이 파킨슨병이 많이 진행된 상태였을 텐데.
“이미 진행됐을 때였지만 약을 좀 세게 먹으면 좋아지곤 했다. 환자들이 병으로 죽는 게 아니라 대개 약으로 죽는다는 말이 있다. 내가 그를 만나던 무렵 뇌에 관련된 약을 1알씩 먹다가 2알로 복용량을 늘렸다. 그것을 2006년쯤엔 간병인이 6알씩 먹이더라. 그런데 에번스는 약을 물로 먹지 않고 다이어트 콜라로 먹었다. 위장이 얼마나 상했을까, 위가 얼마나 아팠을까 생각만 해도 가슴이 아프다. 특히 에번스가 2006년 서울을 방문했는데 비행기를 타고 장시간 여행하는 게 무리였던 것 같다. 뇌의 마비, 몸 근육의 마비를 견뎌내지 못했다. 그 방문 후 더 악화됐다.”
―에번스 의원은 생전에 한국을 2번 왔다고 하던데.
“건강했을 때 잠깐 왔던 적이 있고 그리고 2006년 방문했다. 당시 나눔의 집을 방문해 위안부 피해자 할머니들과 만난 것이 기억에 남는다.”
―‘그대의 목소리가 되어’가 출간됨으로써 미 하원 위안부결의안에 대한 에번스 의원의 열정이 한국에서 새롭게 조명될 것 같다. 책은 어떻게 쓰게 됐나.
“지난해 11월 에번스가 세상을 떠나고 나서 아무것도 하지 못했는데 한 달 후부터 책을 쓰기 시작했다. 원래 원고는 2007년 결의안통과 후 정리해놓았던 것인데, 그 이후 에번스가 세상을 떠날 때까지의 기억을 추가해 새로 쓴 것이다.”
지난 2일 출판기념회에서 서 고문은 이렇게 얘기했다.
“저는 전문 작가도 아니고, 책을 낸 적도 없습니다. 2014년 에번스 의원을 떠나보낸 뒤 ‘그대의 목소리가 되어’를 쓰기 시작했습니다. 그 사람의 영혼을 느끼며 책을 썼습니다. 뇌가 마비되어가는 상태에서 그분이 하고 싶어 했던 얘기가 뭘까를 생각하며 가슴에서 나오는 소리, 영혼에서 나오는 소리를 모아 한 자 한 자 적었습니다. 하루하루 허물어져 가는 육신 속에서 자신의 의견도 제대로 표현하지 못하는 상황을 옆에서 지켜보면서 이제 내가 그분의 목소리가 돼야겠다는 생각에서 책을 낸 것입니다.”
―책을 펴냄으로써 이제 에번스 의원과의 인연을 총 정리한 셈인데, 앞으로 계획은.
“주위에서 에번스 의원 기념관을 만드는 게 어떠냐고 해서 생각 중이다. 우선 유품 등을 모아 워싱턴 정신대 대책위 사무실에 자그마하게 만들 계획이다. 당분간 워싱턴에서 일하면서 위안부 일뿐 아니라 북한 인권 일도 하면서 한·미관계를 이어주는 역할을 하려고 한다.”
―북한 인권이라니, 이제 영역을 위안부 문제에서 탈북자 문제로까지 넓히는 것인가.
“수잰 숄티 디펜스포럼 재단 대표와 함께 북한 인권에 대한 일도 하고 있다. 지난번 숄티가 연방하원의원에 출마했을 때엔 내가 선거대책위원장으로 일했다.”
―숄티는 공화당 소속이고, 서 고문은 민주당 지지자일 텐데 그게 가능했나.
“그렇지 않아도 내가 숄티에게 말했다. 나는 민주당 본토박이인데 이제 민주당 쪽에 얼굴도 못 들겠다고 농담을 했다(웃음). 당적을 초월해 숄티가 북한 인권을 위해 싸우는 모습, 그리고 탈북자들을 위해 일하는 모습이 좋았다.”
―올해 아베 총리의 워싱턴 의회 연설 이후 미·일관계가 밀월기로 접어들었다는 얘기가 많은데, 요즘 미 의회에서 위안부 문제에 대한 관심은 어떠한가.
“그렇지 않아도 21일 길정우 새누리당 의원 초청으로 ‘한일 역사이슈에 대한 미국 정계의 인식과 쟁점’을 주제로 강의를 하는데 미국이 바뀌고 있다. 워싱턴 정신대 대책위에서 위안부 할머니들의 구술기록집인 ‘들리나요(Can You Hear Me)’ 영문판을 의회 각 사무실에 돌렸더니 미 의원들이 의외로 받지 않겠다고 해 깜짝 놀랐다.”
―책을 기증하는 것인데도 거절했다는 얘기인가.
“그렇다. 정신대 대책위 임원들이 전달하려 했더니 ‘노 생스(No Thanks)’라고 하더라. 지난 5∼6월 초의 일이다. 미국 의회 인사들의 심리에 변화가 많은 것 같다. 버락 오바마 대통령이 아베 총리와 손잡고 함께 나가는 마당에 우리가 위안부에 집중할 필요가 있느냐 하는 기류가 생기는 것 같다. 우리가 그런 미국의 새로운 트렌드에 맞춰 새로운 대응법을 찾아야 한다. 중국은 중국 자체의 이해관계 때문에 새로운 시도를 하고 일본은 미국의 각 대학에 많은 기금을 뿌리는 방식으로 영향력을 넓히려 하는데 우리는 대외홍보나 외국 대학 지원면에서 많이 부족하다.
―오바마 행정부 쪽은 어떤가.
“국무부의 기류도 변화하는 것 같다. 웬디 셔먼 국무부 정무차관의 일본편향 과거사 발언이 그냥 나온 게 아니다. 자기 혼자 가볍게 말할 수 있는 게 절대 아니다. 오랫동안 국무부 실무자들을 만나와서 잘 아는데 이들도 요즘에는 한국피로증(Korea Fatigue)을 얘기하더라. 그들이 그렇게 얘기할 때 나도 놀랐다.”
2015.7.17
http://megalodon.jp/2015-0719-0559-37/www.munhwa.com/news/view.html?no=2015071701032909041001
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